Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

原動力

こんばんは!


今夜もこうして、このブログを通して皆さんに分かち合えることを本当に嬉しく思います。


今を生きる、小さなひとりのクリスチャンのことばですが、そのことばが、主にあってあなたの心に植わり、主にあって芽を出し、主にあって実となることを心から願っています。




先ほどテレビを見ていると、卓球の福原愛選手が戦っていました。
その真剣な眼差しと、巧みな技術に驚きました。


相手は前回のロンドンオリンピックの金メダリスト。
結果は負けてしまいましたが、それでも愛ちゃんの戦いぶりには何か胸打つものがありました。



これまでの4年間、いやこれまでの人生すべてをかけて、卓球に打ち込み、勝利のために努力してきたことが、テレビの画面から伝わってきました。


そんな中で僕はふとある聖書のことばを思い出しました。

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。
ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。・・・
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしていません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
Ⅰコリント9章24-27節


「選手が金メダルを目指して、人生のすべてをかけて努力をするように。
クリスチャンも、自分のからだを打ちたたいて、イエス・キリストに従っていきなさい。」


先に天国に行かれた、パウロ先輩の厳しいおことばです。


うーむ。

ストイックですね。



僕は、あまり自覚はしていませんが、ストイックにみられることが多いです。

これまでも何人かのクリスチャンの人に、
「みっち熱いねー。ストイックだねー。俺(私)にはそこまではちょっと無理だわ。」
と言われてきました。


しかし、本当の僕を知れば、そんなことを思わなくなると思います。


はっきり言って、僕はストイックではありません。



大学時代、陸上部に所属していました。

陸上部という場所は、まさに「ストイック」さが求められる場所でした。


陸上に本気でかけている人は、毎日のように練習をしていました。

練習でもよりハードに、よりハードにという流れがありました。


「後100メートルダッシュ!!」
という声を信じて走り終えたら、

「一番最後にみんなで400mリレーするよ!」
というような下りを何度も経験しました。


辛かった。。。


僕はそのたびに、
「もう嫌だ。帰りたい。もう陸上部を辞めたい。」
と心の中で叫んでいました。


確かに、やり遂げた後は大きな達成感はありました。

でも、正直なところ、僕はその達成感よりも逃げたい気持ちが強かった。



また、ひとり勇気を出して飛び出してきた大阪も。

人によっては、
「自己研鑽のためにストイックだねー!!」
と評価してくださいましたが、これも僕が、


「どんどん症例を経験したい!!どんどん成長したい!!」
と自らストイックに希望してやってきたわけではありませんでした。


本当は、学生時代の僕は、北海道の田舎町でゆっくりと研修をしても良いと思っていました。

実際に研修医のときも、当直のたびにドキドキして、当時は婚約者だった妻に電話をして、

「頼む。。。一緒に祈って・・・。マジで当直に行きたくない。。。。」

と弱音を吐いていました。



それでは、そんな弱腰、逃げ腰の僕がなぜ、クリスチャンとして今この地で戦い続けているのか。

僕自身の原動力は何なのか。




一枚一枚そぎ落としていくとき。



最後に残ったのは、聖書のことばでした。

神様が僕に語ってくださったことばでした。



僕の原動力の中には、確かに、向上心や熱意、ビジョン、夢もあります。

でも、これらはすべて、本当の意味では力なく、限界があることを僕は知っています。



僕の原動力の中で、決して色褪せないもの、永遠にぶれないもの。

それは、神様が僕に語ってくださったことばだけでした。




神様が僕に語ってくださったから、約束してくださったから、背中を押してくださったから。


僕は今この大阪の地で、何とか立ち続けることができています。



逆に言えば、神様のことばがなかったら、僕は決してこれまで立ち続けることができませんでした。



聖書には、「信仰は聞くことに始まる。」ということばがあります。


シンプルなことばですが、とても大切な真理。


全ては、神様からスタートしなければいけないんです。

たとえ、それがどんなに「良いこと」であったとしても、神様からスタートしていなければ意味がない。


ある日、僕が突然「牧師になりたい!」と思ったとして。

牧師になること自体は、とっても素晴らしいことですが、それが僕自身から出てくる思いなのであれば、熱意、決意、ビジョン、夢から来ているのであれば、僕は必ず途中で力を失い倒れてしまいます。



逆に、僕自身には「絶対に無理だ。」と思えるようなことであったとしても、神様が計画してくださったことなら、それは必ず成し遂げられます。

だって、神様に不可能なことは何一つないから。


「信仰は聞くことに始まる。」

この点を、僕たちは絶対に勘違いしてはいけないと思います。



僕は、神様に語られ、計画され、導かれたから、今この大阪の地に立ち続けています。

弱腰、逃げ腰の性格ながらも、一生懸命もがいています。



でも、信じています。

神様は、僕のこのたった一度の人生を、僕が思い描くことができないほど、高く素晴らしいものにしてくださると。

将来と希望を与えてくださると。



同じように、僕はあなたに、神様があなたに持っておられる計画を受け取って欲しいと心から願います。

一緒に、主に聞き続けましょう。

主に建て上げていただきましょう!



満ちる

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こんばんは。

今夜もこのブログを通して、皆さんと聖書のことばを思うことができて幸せです。

私の小さなことばが、届くべき人に届き、神様のご計画がなされますように。



今晩のタイトルは、ちょっと驚くような単語かもしれません。

「裸」

私たちが日常生活で頻繁に使うことばではありません。

ただ、聖書には意外にもこのことばが出てきます。


「人(アダム)とその妻(エバ)は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」
創世記2章25節

皆さんご存知の、アダムとエバの話です。
彼らが、ヘビ(悪魔)に騙されるまでは、裸であったことを知っていらっしゃる方もいるかもしれません。


また、ヨブ記にはこんなことばがあります。

「私は裸で母の胎から出てきた。
 また、裸で私はかしこに帰ろう。」
 ヨブ記1章21節

意味はそのまま。
私たちは、母親の子宮から出てくる時、裸でした。
服も着ず、お金も持たず。

完全に裸でした。


そして、私たちが死ぬ時もまた、裸になります。
この地上でどれほど蓄えようと、それらは一つとして次の世界に持っていくことはできないのです。



どちらも、とても興味深いことばだと思います。


私は、聖書の中で言われている「裸」とは、必ずしも「肉体」のことだけを言っているのではないと思うのです。



私たちは、裸で生まれて。

その後、一枚一枚服をまとっていくように。


心においてもまた、いろんなものをまとっていくのではないでしょうか。

もちろん、愛情や友情、勇気などたくさんの良いものもまとうでしょう。


一方で、私たちは良くないものをまとっていくことも知っています。


敵意、妬み、プライド、ウソ。


実際に、小さいころはシンプルだった人間関係も、年を重ねるほどにどんどん複雑になっていきます。

まるで糸がからまってほどけなくなっていくようです。



ただ、私はイエス様に出会い、聖書を読み、イエス様のいのち、人生、生活に触れていく中で、自分自身の心にまとっていたものが一枚一枚脱がされている感覚を覚えるのです。


糸が一つずつ、一つずつ、ほぐれていくのを感じます。




大学時代の話になりますが、私は北海道KGK(キリスト者学生会)に所属していました。

その時に、北海道の担当主事となられたのが、O主事でした。


初めて会った日、一緒に青年の家のお風呂に入り、隣に座って話す中で、私は衝撃を受けました。


「この人…本当に全裸だ…」

いや、身体も本当に全裸だったんですけど。

私が言いたいのは、身体だけでなく、心も全裸だったということに気付いたのです。


Oさんは、本当に隠していませんでした。



正直、人ってみんなあるじゃないですか。

見られたくないもの、触れて欲しくないもの。



隠している過去。

誰にも言えていない失敗。

触れられたくない心の傷。



でも、Oさんは、心が全裸で、何も隠していませんでした。

これは、私にとって衝撃的な事件でした。


正直なところ、これはクリスチャンであっても向き合う問題なんです。

いやむしろ、クリスチャンだからこそ、あまり質問されたくないこと、触れられたくないことがあるものです。

でも、あの時Oさんに出会って、


「俺も裸になりたい!!」
(変な意味じゃないですよ。)

と心から思ったんです。



それでは、どうやったら裸になれるのか。

繰り返しになりますが、それはすべてイエス様がしてくださるんです。


私の心に触れ、周りの人たちに触れ、一つずつ、一つずつ、神様は私が隠していたものは明るみに出し、傷ついていたものを癒して下さいました。



最初の聖書のことばをもう一度記します。

「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」
創世記2章25節



神様との関係が守られていた頃のアダムとエバは、ふたりとも裸であっても、互いに恥ずかしいと思いませんでした。


互いの違いを、素晴らしいものとして、そのまま受け入れることができました。

自分自身の弱さも、相手に頼るための良いものだと受け取り、満足することができました。



イエス様にあって、父なる神様に立ち返っていくとき、私たちは罪を知る前のアダムとエバのように、本当の意味で裸になっていくことができるのではないでしょうか。



今日はここまで。

おやすみなさい!

羊と羊飼い

こんばんは!


今回は、本当に久しぶりの更新になってしまいました。

書きたいこと、伝えたいことは、日々いくつも思い浮かぶのですが、なかなか言葉にできずにいました。

でも、たくさん書くことを大切にするのではなく、神様に聞きながら言葉そのものを大切にすることを選んでいきたいと思っています。



気付けば、2015年も残すところ後5日ですね。

年の暮れに、皆さんは今、どこでどんなことをしているのでしょうか。


家でゆっくり過ごしている方もいれば。

人に会ったり、買い物をしたりと慌ただしく過ごしている方も。

でもここは、皆さん一度立ち止まって、この一年間を振り返ってみるのはいかがでしょうか。



振り返ることは、簡単なように思えて、実は難しいことのように思います。

「立ち止まって、振り返ろう」

そう意識しなければ、なかなかできないものです。

僕も、きちんと振り返るべきだと分かっていながら、それができずに。

いつもテレビのリモコンやiPhoneを手に取ってしまいます。



それぞれの2015年を見つめ直し、落ち着いて、そして希望を持って2016年に進みましょう!

だって、2016年は誰にとってもまだ白紙ですから。

そこで何を考え、何をするのかはまだ何も決まっていないこと。



2015年を振り返り、皆さんの新しい2016年が祝福されますように!



とんだ長い前置きになってしまいましたが、今日は最近しみじみと納得したことをシェアしたいと思います。


それは、自分は本当に「羊」のような存在だということ。

そして、イエス様は本当に「羊飼い」のような存在だということです。



これは、聖書にもよく書いてあるたとえ話で、僕も頭では知っていたことです。

でも、今年のクリスマス、このことが僕の心の奥底の深くにまで落ちてきたんです。


羊は、本当に弱い存在です。

草食動物の中でも、キリンは首をブンブン振って戦いますし、馬も牛も危険を察知したら逃げたり戦ったりするでしょう。

でも、不思議と羊が勇猛果敢に戦っている姿を想像できません。

羊が全速力で命を襲う狼に突進して追い払うなど、全く想像できません。


もう一つ、羊でイメージするのは目先のことで頭がいっぱいになることです。

おいしそうな草を見つけると、そこにトコトコ向かって行ってムシャムシャ。

しばらく休憩して、また近くにおいしそうな草を見つけると、またそこにトコトコ向かってムシャムシャ。


羊はヌーの群れのように団体で規律正しく目的地に向かっていく姿は想像できません。

鮭や渡り鳥のように自分たちが行くべきところを知っている様子も伺えません。


僕らも、この羊と同じで。
本当に弱い存在で、敵に対しては完全に無力で。
自分たちが本来進んで行くべき道へは、自分だけでは向かっていくことができない存在なのだということに、深く納得できたのです。


そして同時に、イエス様が最高の羊飼いであるということも深く納得しました。

いつも羊1匹1匹に目を配り、敵が来たら全力で戦い追い払ってくださり、進むべき道へ歩めるように促してくださり、必要な時においしい草の場所へも導いてくださる。
道を外れて、崖から落ちそうな羊がいれば行って手を差し伸べて助けてくださり、戻ってきた時には心から喜んでくださる。

イエス様という方を、また少し知ることができ、また少し心近くなることができて、嬉しくなりました。



それからというもの、日々の日常生活の中で、この羊と羊飼いのたとえが思い出されること、思い出されること。

自分勝手に物を考えたり、自分の思うまま神様の喜ばれない道に進もうとしている時に、羊飼いに背を向けて本来いるべきところでないところでムシャムシャしてる羊が頭に浮かんでくるのです。


そして、「イエス様、ごめんなさい。」という言葉と同時に、テケテケと羊飼いイエス様の導かれる道に戻っていく羊をイメージしつつ、僕自身の心もイエス様のもとに帰っていきます。

しみじみ、「羊と羊飼い」というたとえは、僕らとイエス様の関係を的確に表現されたものなのだと感じます。



これからも、幾度となくテケテケ道を外れてしまうと思いますが、羊飼いイエス様が「そっちじゃないよ、こっちだよ。」と優しく語ってくださる言葉を受け取って、イエス様が導かれる光の道に戻っていきたいです。


今日はここまで。


実は、今夜は当直です!
残すところ今年は後2回の当直。

病を抱え、困っておられる方々に、イエス様の愛を持って手を差し伸べることができたらと願っています。


良いお年を!
そして、また来年お会いしましょう。

マリヤとマルタ

こんばんは!


夜分遅くに、失礼します。


前回の更新からまたもやしばらく時間が空いてしまいましたが、こうして皆さんに再会できたことを、とっても嬉しく思います(^^)


最近の僕はといえば、9月に入ってNICUをローテートしています。


小さな小さないのち。


でも、確かにそこに存在するいのち。


言葉も話せない子供たちですが、確かに神様がこの子達を選んでこの地上に送ったんだと思うと・・・とっても不思議な気持ちがしますし、そこにこうして医師として関わることができることを、とっても嬉しく思います。




さてさて、今日は「マリヤとマルタ」というタイトル。


聖書好きは、この二人の名前を聞けばきっと箇所も想像できるでしょうが。


読んでくださっている方には、知らない方もいるかもしれないのでその箇所を。




さて、彼ら(イエス様と弟子たち)が旅を続けているうち、

イエスがある村に入られると、

マルタという女が喜んで家にお迎えした。

彼女にマリヤという妹がいたが、主(イエス様)の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

ところが、マルタは、

いろいろともてなしのために気が落ち着かず、

みもとに来て行った。

「主よ(イエス様)。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。

私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

主(イエス様)は答えて言われた。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っている。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。

いや、一つだけです。

マリヤはその良いほうを選んだのです。

彼女からそれを取り上げてはいけません。」




ルカの福音書10章38~42節



この箇所は、何度も何度も読んできました。


面白いことに、読むたびに違った受け取り方ができる。



これが聖書の醍醐味だし、聖書は本当に神様の言葉なんだと思う理由です。



この箇所を読んで、シンプルに疑問しては・・・・・・

「えっ!!?そしたら、イエス様との時間だけ持てばいいの?!!仕事しなくていいってこと!?やっほーーーーい!!」


っていうやつーーー!笑



僕も昔そんなこと思ったなー。




でも、そんなことイエス様は言っていない。



聖書を読むとき、イエス様は誰よりも人に仕える人だった。


僕が特に大好きなのは、イエス様が弟子たちの足を洗うところ。


この間、訪問看護の実習があって、足浴(要するに患者さんの足を洗う)をするところを見させてもらったけど。


なんだかとっても、心があったたかくなった。


イエス様もこんな風に丁寧に愛をこめて弟子たちの足を洗ったんだと思うと・・・僕ももっともっと人に仕えていきたいと思った。



話しは飛んじゃったけど、イエス様は「働かなくてもいい!」なんて言ってない。


その時に、すべきこと、選ぶべきことは何か?ってこと。




イエス様が二人の家に入ってきて。


今を生きる僕らで言うと、イエス様を心から信頼して、心という家にお招きして。



すぐに、「おっしゃーーー!!!イエス様のために働いてやるぞーーー!!」なんてことしないでってこと。



まずは、イエス様との時間を大切にして。


イエス様の言葉を聞いて。


受け取って、めっちゃ元気になって。笑顔になって。


こんな風に、人を愛せるようになりたいなーって思って♪


そうして、イエス様の愛に満たされて、いよいよイエス様のために働き始めていけばいいと思う。




もう一つ、この箇所で大事なことは。


イエス様と別個に、仕事しないでってことだと思う。



人の足を洗うほどに、人に仕えたイエス様なんだから。


マルタがイエス様と親しくなっていくならば、イエス様はどーーーーんなことだって一緒にしてくださったに決まってる。



想像してみて!!


イエス様に話し聞いてもらいながら、一緒に机の上にお皿並べてみたり。

イエス様の話しを聞きながら、一緒に食器洗ったりする・・・




めちゃくちゃ幸せやないかーーーーーーーーい!!!!!笑

(関西の人ごめんなさい。最近、なんだか自分の言葉が不安定です。)




これって、全ての仕事に言えること。


まずは、マリヤのようにイエス様との時間をほんっとに大切にする。


聖書を通して、イエス様が語っておられることをいっぱい聞いてみて!

悩んでることを、イエス様に打ち明けて。

イエス様から励まされて♪



そして、イエス様と一緒に、仕事する(^^)


僕らが仕事をするとき、イエス様は遠く離れておられない。

横にいて、助けてくださる。

励ましてくださる。

元気をくださる。



さらに言えば、その全てを導き、全ての責任を持ってくださる。

イエス様を信じる時、ほんっとに不思議なくらいストレスフリーになっていく♪

自由になっていく!!



クリスチャンの本質は、自由と喜びって聞いたことがあるけど、本当にそうだと思う。




マリヤとマルタの話しは、そんなクリスチャンにとっての大切なことを教えてくれてると思う。



みんなで、イエス様にあってもっと自由になろう(^^)

もっと喜びでいっぱいになろう(^^)♪


おやすみなさい。

ちりあくた。

こんばんは!


かなりお久しぶりになってしまいました。


元気にはしていたんですが(いやここ最近体調崩し気味なんですが)、どうもあわただしい日々が続いておりまして、ずっと更新したいと思っていながらも時間が空いてしまいました。


ただ、今夜こうして皆さんにお会いできることを、心から嬉しく思います(^^)




日曜から今朝までは当直でした。

いつもと同じように忙しい当直だったのですが、週末に小児科のセミナーに出ていたこともあって、体力が減っていて・・・なんだかヘロヘロになってしまいました。笑


現在ローテートしている科では、当直明けはお昼過ぎに帰していただけるので、昼ヘロヘロになりながら食堂でご飯を食べて家に帰って爆睡・・・


20時に目覚めて晩御飯を食べて・・・



さっき寝ようとしたところ、当然のことながらまったくもって眠れず。

今にいたるということです。



あれ・・・・・・


こんな話、どうでもいいですね!!笑




今日は、今日のデボーションの箇所からビビッときた箇所をコンパクトにシェアしたいと思います。


ピリピ3章8, 10, 11節

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」



うーむ。

こうして書いてみると、なんだか難しそうなことを書いているように見えますね。


よく思うんですけど、聖書が書かれたのは2000年以上も前の、イスラエルというまったくの異国な地なわけで、僕は一度も行ったことがないわけで。


そんな時代のそんな場所の人たちに向けて、分かりやすいように書かれた言葉であるわけで。


同じように、今2015年に日本で生きている僕らが分かりやすい表現やたとえにして、伝えていったほうがいいと思います(^^)

それが、先にイエス様を知った僕らクリスチャンの使命だと思います。



たとえば、今日の箇所の一部の、

「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」

っていうことばは、僕的にいうなら、


「僕は、イエス様を信じるってことが一番大切で、それ以外のものはどうでもいいと思ってる。」

って感じ。


また、

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

っていうことばは、僕的に言うなら(これ結構難しいな・・・笑)、


「僕は、ほんっっっっとにイエス様のように変えられていきたいと願ってるんです。そしてイエス様のように変えられていくためには、イエス様のように生きていくことが必要で、イエス様が苦しまれたように苦しみを受け取り、自分を本気で捨てて、イエス様が僕の内側に生きてほしいと願ってる。古い自分はことごとく死んで、イエス様の新しい命で新しい自分で生きていきたいんです。」


って感じかな。





そして、今日デボをしながら、本当にそう思ったんです。



正直、イエス様とともに生きていくこと以外は、大したことじゃないと思うんです。


どんな仕事か。


どんな人間関係か。


あと、地位とか権力とかお金とか。


これらって必要なものだけど、これに人生をかけるのは僕は幸せじゃないと思う。


あくまで、イエス様のように生きていくために、神様が僕らに預けてくださるツールでしかないと思ってるから。



実際に、僕は今医者という仕事をしているけど。

医者という仕事がどうこうとは思っていなくて、僕は「医学」「医療」というツールを用いて、イエス様をのべつたえていくように召されているんだということに過ぎないと思ってる。



場所もそう。


正直、大阪であろうが、北海道であろうが、海外であろうが。


その場所は僕にとっては、全然重要じゃない。


神様が今留まりなさいと言われておられるところに留まること、そこで与えられる人間関係をイエス様の愛で大切にすることが重要だと思う。




ほんっとに、イエス様から目を離したくない。







ちりあくた。


大したことじゃないこと。しょうもないことで悩みたくない。


イエス様に集中したい。

イエス様と共に生きることに、イエス様のように変えられていくことに、集中したい。



よーし!きっと眠れる!笑

おやすみなさーい。

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