Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

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Why do we study?

こんばんは(^^)

昨日は21時からぐっすり眠ることができました。
眠り、身体を休め、気持ちを新たにして今日を迎えることができました(^^)


神様は、人に働くことを与えられましたが、同時に休むことも与えてくださいました。
どちらかが欠けてもいけないんだと思います。

働き過ぎて休まないのも。

休みすぎて働かないのも。

どちらも違いますね。


イエスさまと働き、イエスさまと休む。

そんな人生をこれからも生きていきたいな。


今日のタイトルは、「Why do we study?」です。

実はこれは、僕が高校生の時に、北海道の英語のスピーチ大会で話したもののタイトル。

懐かしいな。

北見市という北海道の小さな町で、審査員の前で話したっけ。

僕の父さんと母さんは、高校時代演劇部で、このスピーチ大会に向けてジェスチャーを徹底的に指導してくれました。

父さんは僕よりも盛り上がってしまって、

「満ちる、最後はクラーク博士の "Be ambitious"と言ったらどうだ!」

とアドバイスしてくれて。

結局、それまでのスピーチの内容とあまり関係のない、"Be ambitious!"ということばを叫ぶことになりました。笑

今となっては良い思い出です。


話はそれてしまいましたが、当時の僕は、勉強することの意味を考えていました。

「なんで、将来使いそうもない、「古典」とかを勉強しなきゃいけないんだろー。」

という、みんなが一回は抱くような思いから、このスピーチを書きました。


実は、スピーチの原稿はどこに行ったかは分からず、結局当時の僕がどんな結論を出したのかは分かりません。


ただ、最近になって、この質問の答えを見つけ出すことができたんです。

今日は、そのことをシェアしたいと思います。





やっぱり、「愛」なんです。


「なぜ勉強するのか?」という問いの答えも、「愛すること」でした。


僕の仕事は医師です。

いつも、目の前に病気や障害に苦しんでいる方がいます。


医学を勉強することの動機は、その人たちへの愛なんだって改めて思うんです。

勉強することにより、よりよい治療を知ったり、症状を楽にすることができたり、障害を軽減することができて。

そのためにこそ、僕は日々勉強しているんです。


すべては、目の前にいるその人を愛する心に始まっている。


きっと、それは医師だけでないはず。

学校の先生も、なぜ、勉強して次の日の授業に備えるのか。

それはきっと、明日生徒ひとりひとりが、聞き、受け取り、身に着け、そしてその先に「大人」となっていくため。


勉強が、目の前にいる人を愛する心に始まるなら、勉強は本当に素敵なものだと感じていきます。


正直、愛を動機としなくても、勉強することはできます。

人の上に立つために。

お金を稼ぐために。

誰かを見返すために。


でも、その先には何があるんだろうって思うんです。

人の上に立つために勉強して、実際に人の上に立つことができたとして。

その先には何があるのかな。

幸せがあるのかな。


お金を稼ぐために勉強して、実際にお金をたくさん手に入れることができたとして。

その先には何があるのかな。



最後に・・・そうはいっても、もしこのブログを高校生の子が読んでいたら、、なかなか「愛するため」ってことを意識することは難しいと思います。笑

きっと、高校生の時の僕もそんな答えにはたどり着いていなかった。


ただ、今当時を振り返って思うのは、勉強することは、社会に出た時に必要となる、「忍耐力」を養うことにつながっているということ。


正直、僕は今、普段の生活で「古典」を使う機会はほとんどありません。

数学や物理、化学の難しい知識もほとんど忘れてしまいました。


でも、テスト前のストレスや、忍耐して忍耐して勉強したことは覚えてる。

それは、今も生きています。


だから、あなたも「今」を大切にして生きていくとき、神様があなたの前に「愛するべき人」、「愛をもって取り組む使命」を与えて下さると思います。

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労苦

こんばんは。

夜分、遅くに失礼します。

前の投稿は8月23日、更新が2か月も空いてしまいました。

僕は、元気です!
と言いたいところですが、そうでもありません。

身体的にも、精神的にも、霊的にも、ヘトヘトな状態であることは2か月前とあまり変わりはありません。

ただ、そのヘトヘトの中にいるからこそ、本当に大切なものに気付かされているのも事実です。


イエス様の教えは本当に不思議です。

「心の貧しい者は幸いです。」

「悲しむ者は幸いです。」


イエス様は、貧しさ、悲しみを、「幸せなことだ」と表現されました。
それは、昔も今も、この世界の価値観とは全く反対のこと。

それがどういうことか、聖書を通してイエス様の人生を知るとき、少しずつ分かります。
イエス様は、お金持ちやこの世界の権力者よりも、貧しい人や人に嫌われる仕事をしている人、病や弱さゆえに苦しんでいる人のもとへ行かれました。

なぜなら、彼らが生きる上で最も必要なものを求めていたからでした。

イエス様には、目に見えたお金や権力はありませんでした。
でも、目には見えない、人にとって一番必要なものを持っておられました。


僕自身、ヘトヘトな日々でこそ、心からイエス様を慕い求めることができます。

ヘトヘトな日々の中に、人よりも自分が優っていると思う高慢な心や、自分中心の心はありません。


ただただ、イエス様の助けが必要だと感じるのです。


今日、妻が素敵なみことばを教えてくれました。

「私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」
コロサイ1章29節


イエス様により変えられた使徒パウロの言葉です。

パウロは、キリストを信じることによって、労苦から解き放たれるとは言いませんでした。

そうではなく、自分のうちに力強くイエス様の力が働く中で、労苦し、奮闘することができるのだと言いました。


僕らにはいつも労苦があります。

それは、イエス様を信じ救われたからといって。変わることはありません。

しかし、イエス様に救われた今は、労苦はイエス様に近づく最高のチャンスです。

労苦により、自分の貧しさ、悲しみ、苦しみ、弱さを感じれば感じるほど。
僕はイエス様を求めることができる。


そして、イエス様は僕のうちに働き、目には見えない大切なものを育んでくださいます。


今、読んでくださっている方の中で、労苦の中にいる方がおられましたら、一緒にイエス様を見上げていきましょう。

「愛がなければ」

こんばんは(^^)

ご無沙汰しております。
元気にしています♪

これまでも何度かブログを書き始めては、最後までことばにならずに書ききれないことがありました。
今夜は、先日7月の下旬に、勤めている淀川キリスト教病院の朝礼でしたメッセージの箇所を載せたいと思います。

このことばを通して、イエス様の喜びと自由を受け取る人がひとりでも多く与えられますように。

おやすみなさい!





「愛がなければ」

「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」Ⅰコリント13章3節(新共同訳)


私は、淀川キリスト教病院で2年間の初期研修を終え、今年の4月から小児科で勤務している佐々木満ちると申します。

今朝は、今年の4月から3カ月間ローテートしたNICU(新生児集中治療室)で気付かされたことを、皆さんと分かち合いたいと思います。

NICUといえば、今年の1月に放送された「コウノドリ」というドラマを連想される方もいらっしゃるかもしれません。
このドラマは、日本の産科・NICUで実際に起こっている問題を的確に取り扱っていて、毎回視聴率も高く、大きな反響があったと聞いています。僕も、このドラマの第1話を見ました。
そこでは、産科・NICUの現場が多く映されており、当時まだ研修医だった私は、このドラマを見ながら、「春からこの場所で自分も働けるんだ!」とワクワクしていたことを覚えています。

そして4月になり、いよいよNICUで働き始めました。
待ちにまったNICUの現場です。最初の何週間かは溢れ出るやる気とあり余ったエネルギーとで、毎日を充実して過ごすことができていました。

けれども、少しずつ、溢れ出ていたはずのやる気は、自分の無力さを前に陰りを見せ、あり余っていたはずのエネルギーは消耗していきました。

それまでの初期研修の2年間は、20歳を超えた成人の患者さんと接する機会がほとんどでした。
しかし、NICUで見ているのはもちろん赤ちゃんです。大きい子でも3000グラム程度、小さい子は数百グラムにもなります。その中で、それまで通用していた知識や技術、コミュニケーションのスキルのほとんどが役に立たなかったのです。

たとえば、コミュニケーションひとつに注目しても、これまでは成人の患者さんと接していた時は直接お話できることがほとんどでした。
「今、何が一番しんどいですか?」「どこが痛みますか?」「退院後どうしたいですか?」
と、患者さんの求めておられることを直接その口から聞くことができました。


しかし、NICUで向き合う赤ちゃんは、当然自分の口で語ることができません。そこでは、その子のわずかな表情、バイタル、全身状態の変化を敏感に察知し、迅速に対応する必要がありました。
さらに、その赤ちゃんに対して、大きな期待と大きな不安を持っておられるご家族が、すぐ横におられます。私は最初、ご家族に対してどのタイミングで、どのような言葉をかけたら良いかも、全く分かりませんでした。

そして、徐々に私の心は、自分の無力さという大敵を前に弱っていったのです。

「どうして、うまくできないんだろう。」
「周りのスタッフに迷惑をかけてばかりじゃないか。」

ネガティブな思いがどんどん押し寄せては、息苦しくなりました。
そして疲れ果てて家に帰っては、すぐに横になり、また朝が来る。そんな日々が続きました。


疲れ果てた私は、ひとり静かに祈ろうと思いました。
私には、神様の助けが本当に必要だったのです。神様のことばが、神様の温かい心が、本当に必要でした。
ひとりで、小さな部屋に入り、壁にもたれかかって祈りました。

その時、僕の心に与えられた聖書のことばが今日の箇所でした。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」Ⅰコリント13章3節(新共同訳)

このことばが、何度も心に響きました。
そして、僕の心に一つの問いが湧き上がってきました。

「果たして、今の自分の心に、愛はあるのだろうか?目の前にいる患者さんを、赤ちゃんを、ご家族を、周りのスタッフを、そして横に居てくれる妻を、愛する思いがあるだろうか?」


私の心は、目の前にあるやるべきこと、やらなければいけないこと、やりたいことという、自分の思いでいっぱいでした。そんな私の心は、この世界で一番大切な、目の前にいる人を愛する心を忘れていました。


今日の聖書のことばを、注意深く読むとき私は重要な事実に気付かされます。
このことばを裏返すと、私たちに愛がなかったとしても、私たちは全財産を貧しい人々のために使い尽くすこと、すなわち「良いこと」ができるということです。

医療の現場でも、今回私が気付かされたように、そこに愛がなかったとしても、目の前にいるひとりひとりを心から大切に思い、幸せを願う心を持てなかったとしても、仕事はできます。それでも、日々は過ぎ去っていきます。

しかし、それは「何の益もないこと」だと聖書ははっきりと教えています。

私は、この聖書のことばに出会って、ハッとしました。
そしてさらに祈り続ける中で、まず、こんな私自身が、自分のことでいっぱいになってしまう私自身が、神様に心から愛されているのだということを再確認しました。
そして、今ここでしっかりと自分の心を見つめ直し、やるべきこと、やらなければいけないこと、やりたいことだけに集中するのではなく、まず自分の目の前にいる赤ちゃんを、そのご家族を、スタッフのひとりひとりを愛する心を一番大切にしようと決めました。


愛する心が大切なのは、医療の現場だけではありません。
プライベートでも、家庭でもそうです。
私が、たとえこの人生で大きな偉業を成し遂げても、たくさんの人に評価されたとしても、たとえ多くの富や、地位、権力を手にしたとしても。
私の横にいつも居てくれる妻を大切にしていなかったとしたら、支えてくれている親友たちとの関係をないがしろにしていたら。
そこに愛がなかったら、私の人生は本当にむなしく、悲しいものだと思います。


逆に、どんなに小さなことであったとしても、たとえ人目につかず評価されなかったとしても、そこに愛があるならば、神様はその人の心を見ておられ、それを価値あることとして評価してくださいます。

最後に、今日の聖書のことばの結びをお読みします。
「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」
Ⅰコリント13章13節(新共同訳)

いつまでも残るもの、永遠に残るもの。
そして、この世界で最も大いなるもの、最も素晴らしいもの。
それが愛です。

愛をもって、今日の一日を、この人生を生きていきたいと思います。

こんな医師になりたい。

こんにちは!


4月に入ってから、1回目の更新です。

僕は、初期研修と同じ淀川キリスト教病院で、小児科医として働き始めました。
これからしばらくは、ここで頑張っていきたいと思っています。


振り返れば、高校生の時に母さんが連れていってくれた障がい児との交流キャンプが、医師を目指すひとつのきっかけになりました。

とゆっても、
「僕がこの子たちを助けるんだ!」
とかそんな格好良いものではなく、

「母さんと同じように、この子たちと関わる仕事をしていきたいな。」
となんとなく思ったんです。


母さんが特に関わっていたのは、医療的なケアを必要とする方々でした。

気管切開や人工呼吸器、吸引など、命に関わる重い障がいをもった方々でしたが、彼らは本当に純粋でした。

中には、言葉も話せないし、感情を読み取ることもできない子もいましたが、彼らと関わると自然と心が穏やかになりました。


母さんはよく言いました。
「この子たちが笑顔になれる社会は、すべての人が笑顔になれる社会だよ。」


この言葉は、息子の僕にも引き継がれていて、いつも心にあります。




僕は最近ふと、医療の現場で最も必要なものは何なのだろうと考えます。


知識。


技術。


スタッフ。




でも、最も必要なのは、「愛」だと思うんです。



この子に元気になって欲しい、この子に笑顔になって欲しい、この子に幸せを感じて欲しいという思いこそ、医療の現場で最も大切なことで、僕が医師として最も大切にしていくべきことなんだと思っています。



僕は医師として、働いた分お給料も必要ですし、資格や地位も時に必要かもしれません。
また、今後どうなるかは全く分かりませんが有名になるかもしれません。

しかし、こういったことはあくまで結果の一部であって、目的ではないと思うのです。



正直なところ、医師という仕事は、富や地位、名誉が目的になりやすい、誘惑が多い仕事です。


富のために働くこと。

地位のために働くこと。

名誉のために働くこと。


これらは僕の心を、いつも誘惑してきます。



でも、僕はそんな時にイエス様を思い出します。
イエス様の人生を、イエス様の思いを、イエス様のリーダーシップを思い出します。



イエス様が一番大切にしておられたものこそ、まさに愛でした。

イエス様にとって、お金をたくさんもらうことや、その名が全世界で有名になること、王の地位に就くことは、目的ではありませんでした。


イエス様の人生の目的は、ひとりでも多くの人たちを愛し、天の御国へと導くことでした。
ひとりでも多くの人たちが元気になり、笑顔になり、本物の幸せを受け取ることを目的として、そのためにイエス様は十字架にも架かられ、復活されたのです。



僕も、イエス様のような医師になりたいんです。

目的を、決して誤りたくないんです。



小さな小さな子供たちを、彼らよりもっと小さな小さな僕が、愛し、仕えること。

このことを目的にして、一日一日を丁寧に大切に積み重ねていきたいと、強く思います。

自分の使命へ向かって。

こんばんは!

また、更新が滞ってしまいました。

9月からは呼吸器内科をローテートし始め、新しい環境の中でドタバタ。

やっぱり緊張するし、不安もあります。

でも、うっってなるときほど、弱い自分はイエス様を求めることができる。

そう考えたとき、元気なときは元気なときで幸せだし、元気ないときは元気ないときで幸せだなって思います。



話は変わって、先週と今週とで、「軍師 官兵衛」っていう大河ドラマを観ています。

正直、あんまり歴史とか詳しくないし、興味もない自分だけど、何でかこのドラマに魅かれる。

戦国時代という、今とは全く異なる環境の中で、イエス様に出会い救われて。

豊臣秀吉という、色んな意味で有名な人の横にいながら。

イエス様に従っていった人の人生を通して、神様は今確かに語って下さっていると感じる。


イエス様に従うこと。

それは、細く険しい坂道を上るようなもの。

その先には確かに光があり、幸せがあることを知っている。

それは、戦国時代も、2014年9月7日の今も全く変わらないことなんだと思うと、とっても不思議です。



またまた話は大きく変わります。

実家の北見に帰った時、たまたま(いや!神様の導きで!)母さんの職場に見学に来られていたD先生というクリスチャンドクターにお会いする機会がありました。

D先生のことは、旭川医大に入ったころからお名前やご活躍を聞いており、会いたいと思っていたドクターのおひとりでした。

実際にお会いしたD先生。


想像より何百倍もパワフルで、熱い方でした。

ご一緒できたのはお昼の2時間弱だったけど、その時間は本当に楽しくて、わくわくして、自分にとって最高のご褒美でした。


そんなD先生に、僕は一つの質問をさせていただきました。


それは、

「将来・・・何科に行こうかって悩んでるんです。先生はどう決めたんですか?」



正直、最近はこのことをずーっと考えてる。

研修医も5カ月目に入り、そんなにのんびり言ってられない時間に入ってきた。

その中で、僕らドクターにとっては、診療科で人生が大きく変わってしまう。

だから、本気で悩んでた。


そしたら、D先生はこう言った。

「僕が今やっている分野は、正直学生時代にやりたいと思ってた科とは違うんだ。

考え方を変えてみたらどうかな。

『何科に進むか?』

ではなくて、

『将来一人のクリスチャンとして、何が使命として与えられているか?』

ってことを。

そしてその使命を全うしていくために、今自分はどんな知識や技術を身に着けていけば良いんだろうって、考えてみて欲しい。」





心に沁みこんだ。

そして、とってもすっきりした。

自分はこれまで、診療科から自分の人生を創造していた。

この科なら、ある程度の時間があり、家族との時間もとれ、興味ももって取り組めるかも!とか。


でも、違うんだ。

俺が今求めるべきは、「診療科」ではなくて、神様が佐々木満ちるという一人の人間にどんなことを願っておられるかなんだって知った。


そしたら、色んなことがクリアになった!!


見えてきた。


俺は、これからもイエス様に従っていきたい。

イエス様が用意して下さっている計画を、ビジョンを、使命を一番大切にしていきたい。


これからの人生、イエス様に期待(^^)

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