Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

お金のこと。

こんばんは!

本日二回目の更新。



今日は、働くまではそんなに気にならなかったのに、働いた途端に大きな大きな存在感を示してきた「あいつ」について書いてみる。

正直、自分でお金を稼ぐようになるまで、俺はこんな風に思っていた。

「俺は、お金なんかに縛られるわけがない。お金よりも大切なことを知ってるから。俺はきっと死ぬまでお金に関してはそれほど悩まないだろう。」


でも、今の俺はどうだろう。

完全に「あいつ」に頭が持ってかれている。



今朝と同じく、デボーションテキストのリビングライフの巻頭の特集にこんな言葉があった。



お金というものには奇妙な特性があります。
なければ生きていけず、多ければ問題が生じます。
お金は、あればあるほどさらに欲しくなり、人の行動を支配します。




そして、俺が大阪に来る前に父さんがふとつぶやいた言葉を思い出す。



満ちる、父さんは神様に感謝している。
多くを持っていなかったことを、本当に感謝している。




正直なところ、今の俺には父さんが言ってたことを自分の言葉としていうほどの信仰がない。

だけど、働き始めてから生じた俺の心の中の葛藤は・・・、何も知らなかった俺が想像していた以上に強敵だった。



お金は不思議だ。

上限がない。

上には上がある。

たった一枚のTシャツも、500円のものから数十万円するものもある。

住む家にも、広さや土地柄、建てられた年数によって金額は大きく変わる。



上を求めれば、限りがないのがこの世界だ。

俺は学生時代、「こんな世界に染まるものか。いや、俺は絶対に染まらない自信がある。」と自分に言い聞かせていた。


しかし、今素直に思うのは、それは自分の力では絶対になしえないことだということだ。

俺も男だ。

男として見栄がある。

格好つけたいし、おしゃれだってしたい。すごく見られたい。

それが神様の目からみたらそれほど大きなことではないと気づいていても、俺の心の中にそんな衝動があるんだ。



クリスチャンとして、、情けないけど今の俺の心はこんなんだ。


だけど、さっき父さんと電話して、なんだかちょっと殴られた気がした。

小さい時に悪いことをすると、父さんは俺の頭のてっぺんに、垂直にこぶしをぶつけた。

あれは痛かった。

だけど、あの痛さが、これは駄目なことなんだと気づかせてくれた。


同じように、父さんとのさっきの電話で、父さんはそれほど強くは言わなかったけど、ずしんとげんこつをしてくれた気がする。

「本当に大切なことに気づきなさい。」

そういわれた気がする。



上を、さらに上を。

そんなむさぼる心に限りはない。


そうではなく、今与えられているものに感謝を。

与えてくださった神様に真心からの感謝を。


イエス様、俺のこのしょうもない心をあなたの愛で埋め尽くしてください。

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赤ちゃん

こんばんは~♪

今日は礼拝の後、アルバイトの家庭教師をして、陸上部の友達&後輩とおそばを食べて、そしてDVDを観て…という素敵な日曜日を過ごしました(^_^)/感謝!!

いやー、僕は映画が好きなんですよ。
「趣味は何ですか?」って聞かれたら、かっこつけとかじゃなく映画鑑賞って言えますからねー。
(↑いや、かっこつけで言ってる人が多いと言ってるわけでは・・・汗)

なんで映画が好きかっていったら、なんていうか、映画ってすっごい力あると思うんですよね!!
まーた、いつものざっくりな感じですが(笑)、映画って、ほんの二時間でその人の気持ちを元気にさせたり、前向きにさせたり、考えさせたり、場合によっては人生を変えてしまうことだってあるんですよ!

それってすごくないですか?!

もちろん、逆に怖くて眠れなくなったり、暗い気持ちになったりするものありますが、基本僕はそういうのは観ませんw


今日観た映画も、とっても素敵で、ほんの1時間半でちょっとだけ落ち込んでいた僕の心は元気になりました。

「Once ダブリンの街角で」って映画だったんですけど、特に、音楽が好きな方にはぴったりだと思います♪僕の中では、「奇跡のシンフォニー」以来の素敵な音楽映画でしたね。

そしてそして、すーぐ影響を受ける僕は、映画を観終わった直後にギターを持ってきて、賛美を歌い始めましたw

単純だー



そんな前置きもさておき、今日のタイトルは「赤ちゃん」。
いや、別に赤ちゃんできたわけではないですよw


実は、実家の北見に帰って、いつものように家族でゴロゴロしてた時に、母さんがこんなことを言ってたんです。

「クリスチャンの生き方って、出産と似てるかも。」


最初聞いた時は「はいっ?!」って思いましたが、よくよく聞いてみれば、とーーーっても分かりやすいたとえだったんです。
なんといっても、母さんは僕含め七人の子どもを産んだ出産のプロですからね!!

以下、母さんのお話しダイジェスト。


クリスチャンの生き方って、「能動的受容」って言われるよね。
つまり、イエスさまによって救われて、神さまを信じて、ただ何もしないで待っているわけではないってこと。
自分のできることを一生懸命やりながらも、原則として私たちは神さまの時を待ち、神さまが成されるをことを期待して待つ。
一方で、そのために、みことばを読み、クリスチャンとしての力を蓄える。

それって、妊娠して、出産するのと、とっても似てると思うんだよね。
つまり、私たち女性は、赤ちゃんという素晴らしい贈り物を授かり、少しずつ大きくなっていくのを感じる。それは、本当に喜び。
原則主役は赤ちゃん。赤ちゃんのために、栄養ある食べ物を食べ、自分の体を整える。
そしていざ出産の時、お母さんは自分勝手に息むのではなくて、赤ちゃんのペースに合わせる。
生まれるまでは本当につらいけど、一度生まれた赤ちゃんの顔を見ると、つらかったことも忘れるくらい喜びに満たされる。



なるほどーって思いました。
僕は男性だから、どう頑張っても赤ちゃんを産むことはできませんが、それでも実習で産婦人科を回ったり、教会のお母さん達のお話を聞いたりしていたためか、なんとなーく、母さんの言っていたことが分かりました。


そんな中、今日の礼拝で、次の箇所が開かれました。

「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」
ヨハネ16:21


母さんの言ってたことと、このみことばがリンクして、とっても心に留まりました。

クリスチャンとして生きていく中で、神さまは僕らを愛しているが故に、チャレンジや計画を与えられます。
それらに対して、「僕にはできない」、「いやまだ無理です」って言って逃げることを神さまは求めておられないのだと思います。

「分かりました!僕にはイエスさまがいます!イエスさまにあって、僕は耐え忍びます!」って、立ち向かっていきたい!

もちろん、全ての主権は神さまにあります。
そして、そのチャレンジや計画は、時として大変なこと、苦しいことを伴っています。

だけど、信じて耐え忍ぶ時、神さまが一番ふさわしい時に、チャレンジによる成長を、想像を超えた計画を見せてくださるのだと思います。


僕は赤ちゃんは産めないけど、神さまがお嫁さんとして与えて下さったに人には、こんな話をしながら、生まれてくる子どもを思って互いに祈り合えたらなーーとか思ってました・・・(^_^)



それでは、今日はこの辺で。。
皆さんの新しい一週間も、イエスさまにあって感謝とよろこびに満ち溢れたものになりますように♪

父さん

おはようございます♪

昨日の朝一番のバスに乗って、旭川に戻ってきました。

戻ってくるやいなや、幼なじみの家族が旭川にやってきました。
「家族」と書いてる通り、同い年のTには素敵なお嫁さんと可愛いキッズが!!

そいつがめちゃんこ可愛くて、僕が頑張って作ったオムライスをおいしそうに食べる、食べる、食べる。
結局お母さんに作ったオムライスの3分の1くらい食べてくれましたw

あれだけ食べてくれたら、作ったほうも嬉しいなー

そして食欲は収まらず、パチパチ拍手しながらデザートのプリンもぺろりと食べて帰りました。
やっぱり子どもは可愛いですね♪

神さまが、帯広に住む幼なじみ家族を祝福してくださいますように。


話しはちょっと戻って、北見滞在4日目夜。
今回の帰省の最終夜。

父さんから大事な話があると言われ、夕食後二人になりました。

父さんと祈った後、春休みについて聞かれました。
そして、僕の順序立ってない話を、静かに、そして笑顔で聞いてくれました。

その後、二人で聖書を開きつつ、日本や世界の現状、僕がこれからクリスチャンとして生きていく上で持つべき覚悟などを、話して下さいました。

三時間近くあった時間も、あっという間に過ぎ去ったと感じてしまうほどに、僕らはイエス・キリストにあって互いに一つとなりました。

そして、最後に互いに祈った時、父の祈る姿を見て、心から僕は思いました。

「本当に、父さんの子どもとして生れて良かった」と。



振り返れば、北見で過ごした18年間の中で、大切な局面の時にはいつも、父さんの存在がありました。


僕の父さんは、非常に個性的で、情熱的で、信仰的で、そして何より愛に満ち溢れた人です。
父さんは人一倍、神さまに対して熱い思いを抱き、七人の子育てに関しても熱すぎるくらいの情熱を持っていました。

今でこそ違いますが、僕が物心つくまでの父さんは、野球でいう「変化球」は一切投げない人でした。

常に「直球」「ストレート」。
しかも、常に「本気」。

子どもの僕らに対しても、父さんは絶対に手を抜きません。
徹底的に、その愛と情熱で真っ向勝負です。

具体的に言えば、ある年の大晦日。
父さんは祈りの中で子ども達と向き合う事を示されたのか、朝9時から夕方の18時まで、ほとんど間髪を入れずに子ども達と向き合いました。
当時小学校に通っていたのが僕の一つ下の妹ぐらいまでだった気がするので、平均一人2時間半の個人面談が行われました・・・
学校の先生も顔負け。笑

そして一年間の歩み、犯してしまった罪、父さんに隠していたこと、父さんは徹底的に向き合いました。笑

面談部屋から出てきた兄弟が、疲れ切った顔で、「覚悟したほうがいいよ。」と言ってくれたことを覚えています・・・笑


今思えば、そんな父さんの思いはいつもただ一つでした。
僕ら子ども達みんなが、イエス・キリストという救い主に出会うことでした。
イエスさまに出会い、罪赦され、神さまの御名のもとにこの世界で生きていくこと、証していくこと、それだけが父の願いでした。



そんな父さんとの思い出の中で、僕が最も大切にしているものがあります。
前にも書いたことがあるかもしれませんが、高校一年の冬の、とある3日間でした。

きっかけはとても些細なことでした。
しかし、そのときは珍しく僕も食い下がり、話し合いが続きました。

そして、何と言ったかまでは覚えていませんが、僕は父さんに対して、本当にひどい事を言いました。
あの瞬間のことを今でも覚えています。

その時ばかりは、父さんは言葉を失い、僕は急に恐くなって部屋を出て行きました。

その日の夜から、3日間、父さんは僕と口を利いてくれませんでした。
2日目の朝ごはん、隣に座ってご飯を箸で口まで運びつつ、横目に父さんを見ました。
父さんは一切、僕の方を見ることなく、黙々とご飯を食べ、新聞を読みました。

あの時、僕は想像を絶する悲しみで心がいっぱいになりました。
その時は、なぜそんな思いでいっぱいになったのかは分かりませんでした。

でも今思えば、父さんが僕に注いでくれた大きな大きな愛が、僕から離れていってしまったのだと感じたからでした。


なぜ、あの3日間を僕は大切にしているか、それはあの体験を通して、父さんの、そして神さまの愛を知るきっかけとなっているからです。




NC2013の3日目の朝、講師の朝岡先生がこう質問しました。
「イエスさまが十字架に架かられた時の痛みはなんだったのでしょうか?」

僕は静かにその言葉を思い巡らしつつ、続けて語られる言葉に耳を澄ましました。
「手に打ち込まれた太い釘でしょうか?脇腹に刺された鋭い刃でしょうか?確かにそれもとても痛かったでしょう。しかし、イエス・キリストの一番の痛みは、悲しみは、苦しみは、父なる神から見捨てられることでした。この世界の始めから共にいた愛なる神に、あの瞬間、イエスさまは見捨てられました。」


僕はその言葉を聞いて、息を飲みました。

イエスさまが、十字架の上で言われた言葉を思い出しました。


三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。
これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイ27:46



イエスさまが十字架上で体験された、「父なる神に見捨てられる」という想像を絶する痛み、悲しみ、苦しみが僕の心に迫ってきました。
それほどの思いをされても、成し遂げられた十字架。

なぜか。
それは、父なる神さまは、それほどまでに僕ら人間を愛しているからです。
御子を見捨てなければならないという悲しみを、父なる神さまご自身が耐え忍ばれました。
父から見捨てられなければならないという悲しみを、御子イエスご自身が耐え忍ばれました。

僕らすべての人々が、罪赦され、天国に行くことができるため、なされた御業だったのです。



僕が父さんと口を利けなくなったこと、それは僕の自業自得であり、決してこれと重ねているわけではありません。
しかし、神さまの恵み、あわれみの中で、僕のあの体験は、どれほど天の父なる神さまが、イエスさまが僕を愛し、僕ら人間を愛しておられるかを知る基となっているのです。



僕も23歳になり、幼なじみには結婚し、子どもを授かっている人もいます。
御心なら、僕もきっと、そう遠くない未来に、「父さん」になる日がやってきます。

こんなに素晴らしい父さんの子として生れて、そしてこれほどまでに素晴らしい父なる神と、子なるキリスト知っているものとして、僕は生れくる子に、溢れるほどの愛を注ぎたいと思います。


今日は珍しく写真!
(昨日幼なじみと久しぶりにアルバムを開いたらいいのがありました・・・w)
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父さんと僕
ちなみに今の父さんは、ひげがもじゃもじゃ。


おまけ!
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僕が幼稚園?の時。
札幌のおばさんの家に泊まりにいくと自分で言っておいて、夜中に眠れなくて北見の家に電話し、結局深夜に両親が札幌に車で来てもらった某泣き虫少年。
未だに佐々木家の逸話として語り継がれている。

受動的姿勢

こんにちは(^^


いよいよ大学が始まりました。
4年生の教室は狭く、暑く、座りづらく。。
かなりQOLが低い中で朝から夕方まで拘束されるので辛いです。


ただ、今日はお昼に少し抜け出して、旭川に来た母に会うことができました。
二人でランチバイキングを食べながら、いろいろな話ができて感謝でした。

母と別れるとき、なぜか涙ぐんでいる自分がいました。
特に、永遠の別れでもないのに、母への大きな感謝と寂しさがこみ上げました。


母と別れてから、母が昨日今日とかけてくれた言葉を振り返っていました。

試験のこと、考えすぎるんじゃない。
みっちは、今まで優等生でやってきたからね。
周りの人がどれぐらい進んでいようが、自分がどれだけ進んでいまいが、比較したって何も良いことないんだよ。
考えない!考えない!ってすればするほど、試験のこと考えちゃう。
ただ、イエスさまのことを思い続けなさい。
不安も、劣等感も、焦燥感も何もかも、イエスさまにゆだねなさい。



頭の中で、母の言葉一つひとつを繰り返し、繰り返しめぐらせて、同時に、みことばを繰り返し、繰り返し読み続けました。

そして、なんとしてでも、母が教えてくれた「秘訣」を体得しようと必死になっていました。


しかし、そんな自分に違和感を覚えました。

俺は、何をしてるんだろう。



またも、僕の悪い癖が出ていることに気付きました。
そう。僕の悪い癖の一つは、何事も自我を心の中心に据えてしまうことなのです。
まるで、ビジネス本や心理学の本から、日常に使えそうな「秘訣」を見つけて自分の生活の取り込むかのように、みことばや母から教え受けた教訓をも、1つの「秘訣」として能動的に自我に体得させようとするのです。

これは、傲慢以外のなにものでもありません。


こんな風に書きながら、僕はこの夏休み前までは、日常的にこの方法をとっていました。
イエスさまによる救い、聖書からの助け、励まし、知恵、いずれにおいても、自分という人間の中心に据えた「自我」に引き寄せようとしていました。


けれども、KGKの夏期学校で教えられました。

クリスチャンの土台は、決して「能動的姿勢」からはできません。
主の前にひざまずき、徹底的にへりくだる中での、「受動的姿勢」においてのみ、主の偉大な御業を知ります。
言い換えるなら、救い、助け、励まし、知恵、どれをとっても、自我の中で煮たり、焼いたり、消化したりして生まれでるものではないということです。

僕という一人の人間の外で、主はすでに救いを成就してくださっており、僕という一人の人間の外で、主は常に助けと励ましと知恵の手を差し伸べてくださっています。

後は、僕がそれを信じて受け入れるかどうかだということです。
そして、主の偉大な御業を信じ、受け入れ続けることが、信仰の土台を強固にし、信仰の根を深みまで成長させてくださいます。

そのような、「受動的姿勢」が土台・根として据えられた上で初めて、努力・行いといった「能動的姿勢」が生まれでます。

僕は、そんな大切な大切なことを、KGK夏期学校を通して教えられました。


話が大分膨らんでしまいましたが、僕はそんな「受動的姿勢」がなかなか取れません。ついつい、心の真ん中に自我を据え置き、主の偉大さを小さくしてしまいます。

それでも、この事実に気付いた今、僕は主の前で徹底的に砕かれ、へりくだる者と変えられ、ただ主によって強固な土台がつくり上げられることを望みます。


「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10:17

ブライアン・ホー氏召天 ~自分の十字架を負うってどういうことか~

こんばんは!


今週1週間、お疲れ様でした。
本州はかなり暑かったみたいですね(>_<)!
旭川は・・・寒いです。笑
長袖でもガクブル×2って感じですよ(T_T)


さて、今日はどうしてもこのblogに書きたいことがありました。


タイトルの通り、
ブライアン・ホー氏についてです。


昨日だったでしょうか、父からこんなメールが来ました。


「英国の平和運動家ブライアン・ホーが、
 満ちるの誕生日に天に召された。
 Brian Hawで検索しなさい。肺癌だったそうだ。

 全世界に、クリスチャンは多いが、真底平和主義者は少ない。
 十戒を守ることは、命懸けということだ。
 お前が、主に従順に、誰よりも謙遜であるように。」



以前から、彼のことは聞かされていました。

「イギリスには、国会議事堂の前に座り込みを続ける、
 すごいクリスチャンがいるんだ!!」

電話するたびに、熱っぽく父は語っていました。



そのブライアン・ホー氏が亡くなられた。
それも、僕の誕生日に。。



僕は改めてブライアン・ホー氏についてネットで検索してみました。

彼の生い立ち、彼のこれまでのヒストリー、現在の活動。
ある週刊誌のインタビュー記事を読みながら、鳥肌が立ちました。
(http://www.news-digest.co.uk/news/content/view/4355/120/)


「今の時代に、こんな生き方をしている人がいたんだ・・・」


なんだか、頭をガツンと殴られたようなインパクトがありました。



彼は、米英によるイラク戦争に抗議するために、
ロンドンの国会議事堂前で約10年間テント生活を続けました。

365日24時間。
彼は、ずっとそこに居座り、
平和を訴え続けました。


それも生半可じゃないんです。
通りすがりの人にバカにされたりするなんて日常茶飯事で、
「住まい」であるテントをぐちゃくちゃにあらされたり、
この抗議を阻止するために訴えられたことも何度も。。


それでも彼は止めなかった。
彼は一切武力を使わずに、「平和」を主張し続けました。



「なぜこの活動を始めたのか?」という問に対する彼の答え・・・


「神に導かれたから」


彼は、自分の使命に、神さまに与えられた人生に、ただ忠実に生きていたんだって思います。
彼の記事を読み、真っ先にあのみことばを思い出しました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
 自分を捨て、自分の十字架を負い、
 そして私について来なさい。」




自分を捨てるってどういうことか。

自分の十字架を負うってどういうことか。

イエス・キリストについて行くってどういうことか。



それを、「リアル」に、「背中」で見せられたように思います。



「今の時代だから、そんなみことばに忠実になんて・・・。」

そんな言い訳、天国に行ったとき通用しない。


ブライアン・ホー氏が残したもの。
それは、

「平和を追い求める思い」と同時に、

「自分の十字架を負うとはどういうことか?」という問いのような気がします。

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