Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

悔い改め

こんばんは。


大阪は雨です。


僕が大阪に来て最初の2年間は、病院のすぐ近くにマンションがあって、あまり「梅雨」という季節を感じませんでした。

でも、教会の近くに引っ越してからは、病院まで距離がある分外の天気や季節をより肌で感じるようになりました。



僕は、雨はそんなに嫌いではありません。
なんとなく、雨の音を聞いていると安心します。



さて、今日の記事は、前回の記事と関連しています。


もう…一言で言うと、「悔い改め」の記事です。


前回の記事で偉そうに、「僕は神様を主語にして選択してきたし、今も選択しています!」と豪語したわけですが、あの後神様はいろんな方法で、


「満ちる、本当にそうか?」


と問うてくださいました。



本当にこのみことばの通りです。

「立っていると思う者は、倒れないように気を付けなさい。」
Ⅰコリント10章12節


正直、僕は、「自分は立っている」と思っていました。

イエス・キリストを心から信じ、その計画の内を歩んでいると思っていました。



そして、このブログにも大胆に書き。

大切な妹の進路の相談の時も、
「神様が計画しておられるものをもっと真剣に求めないと!!自分がしたいことじゃないよ!」
と強く言っていました。



でも、このブログでのことばも、妹に対して言ったことばも、跳ね返って自分に返ってきました。
自分こそ受け取らなければいけないメッセージだったんです。



そのことに気付かされたのには、いくつかのエピソードがありますが、その一つは一番上の姉の存在でした。



先日、大阪の家に泊まりに来てくれて、食後にゆっくり話す時間がありました。

「俺は、こうこうこういう現状で、こうこうこうで、こうこうこうしていきたいと思ってるんだ!」


内心、姉ちゃんには、「へーーー!すごいね!!さすがだねー!」なんて言われると思っていました。



しかし、姉ちゃんの応答は違いました。


顔を曇らせ、一言。

「それって、本当に神様がみっちに持っておられる計画なの?」

「なんか、ひっかかる・・・・・・。」




「え・・・・・・。」


予想外のリアクションに困惑する僕。


でも、じわじわと姉ちゃんが僕に伝えたかったことの真意が分かってきました。



僕が「これが神様の計画だ!」と思っていたものを一つひとつ分解してくとき、それはすべて僕自身の思いでした。


今目の前にある状況。

迫っている時間。

自分の体力や気力。


それらを自分の頭で組み合わせ、自分で導き出した答えでした。



もちろん、考えること、計画することは大切なことです。


でも、僕が自分で願い、立て、実行していく計画は、神様が望んでおられるものではありません。



ハッとしました。



そして、途端にとっても恥ずかしく、情けない気持ちになりました。


こんな自分の現状も気付かずに、偉そうにブログに「自分はできている!」と伝え、妹にも説教をしていたなんて。

つくづく、未熟な自分だと感じました。



姉ちゃんは最後に言いました。

「ただただ、神様の前に静まって祈り求めな。神様がみっちに持っておられる計画が成されることだけを願ってる。」


本当に感謝、感謝のことばでした。


みことばの通りです。


「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
ローマ10章17節


神様のことばを聞きたい。

父なる神様が、僕と僕の家族に、どんな計画を持っておられるのかを求めていきたいと強く思いました。




今も、その祈りの途中ですが、教えられていることがひとつあります。


それは、最近僕が立てていた計画、願っていた計画には、欠けていたものがあったということ。

それは、世界で最も大切なもの。

永遠に続くもの。



「愛」です。


「愛がないなら、何の値うちもありません。」
「愛がなければ、何の役にも立ちません。」
 Ⅰコリント13章2-3節


たとえ、僕がこの小さな頭で壮大な計画を立てて、たとえ、それを完璧に成し遂げたとしても。

愛がなければ、神の愛がなければ、完全に無意味。


僕の立てた計画には、最も大切な「愛」が抜けていたように思います。



悔い改め、神様の声を慕い求め、神様の愛を受け取り、また新しく一歩を踏み出していきたいです。

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ふところの広い男

こんにちはー♪


今日は礼拝が終わって、ほんとに尊敬してる、そしてかけがえのない信仰の先輩にご飯に連れていってもらいました!!

おいしい料理を食べながら、いっぱい話しを聞いてもらって、いっぱい大切なことを教えてくださって、ほんとに素敵な時間でした。。

その兄弟は、このブログにも何度か書かせていただいてるんですけど、いっつも的確なことを言ってくださいます。
僕のことを大切に思ってくださって、気にかけてくださってるからこそなんだって思うとき、ただただ感謝が溢れます。。

きっと、その兄弟のような存在を「メンター」って言うんですよね♪


もう、教えてくださったことの中で書きたい事は山ほどあるんですけど、今日はここ最近ずっと自分の中でモヤモヤしてたとこについて。


昨日も、大切なクリスチャンの友だちと話してて思ったんですけど、僕にはクリスチャンとして「直球気質」があるんです。なんてゆーか、うまく言えないからモヤモヤしてたんですけど(笑)、普通のことを普通にできたらなって思ってたんです。

普通に感じてることを、普通に言葉にしたり。
いや、別に言葉にしなくたっていいんだけど・・・笑

はい、やっぱモヤモヤですね。笑



そして、そのことをその兄弟に聞いていただいたんです。
そしたら言ってくださいました。


「それはきっと、お前が日々生活してたり、人と会話してる中で、それをすぐ聖書に置き換えるクセがあるからなんじゃないのか。もちろん、お前が言ってることは正しいし、それを聞いてる人も、『その通りだね。』って言えるんだけど、それで終わっちゃうんだよなー。」


そ、そ、それだーーーーー!!!


僕の心に、その言葉がめっちゃ迫ってきました。


僕は、ほんとにほんとに聖書が大好きです。
聖書の言葉を読んだり、覚えたり、思い巡らすことが幸せです♪

それ自体はぜんっぜん悪いことじゃないし、むしろこれからも大切にすべきことなんだけど、人と接するときに、聖書の言葉を前面に押し出してしまうのは、ある意味自己満足なのかもって気付かされました。


ほんとに、一緒に過ごす人一人ひとりと、その関係を大切にしたい!その人のことをもっと知りたい!って思うなら、知恵をもって、愛をもって、聖書の言葉を用いるべきなんだなって思いました。


そして続けて、
「お前が、普段の日常で普通に話してることだったり、お前の生活だったり、そういう部分で聖書の言葉を表すことができたら、お前の人生はもっと楽しくなるぞ。ふところの広い男になりなさい。人を受け入れることができる人に、そういう心に、神さまにあって変えられなさい。本物のクリスチャンは、『私はクリスチャンです』なんて演じないんだぞ。」
って言ってくださいました。


うんうん。
ほんとにその通りです。


最近思ってたこと、感じてたこと一つひとつが、その兄弟を通して言葉になりました。

神さま、その兄弟を与えてくださって、ほんとにほんとに感謝します。
全ては、あなたの栄光を表すために、僕をふところの広い男に作り変えてください♪



満ちる

誠実さ

おはようございます。

昨日は礼拝の後、男性だけの聖書の学びがありました。
テーマは、「リーダーシップは“誠実さ”である」

牧師含め参加された6人の兄弟の内、独身は僕一人。更には皆さんパパ。
信仰の大先輩に囲まれ、恐縮しながら学びをさせていただきました。

そして家に帰ってきてからもずっと、学びを通して問われた「誠実さ」っていう言葉がグルグル頭を回りました。

「ここ最近の僕は、どれだけ神さまに対して誠実だっただろうか・・・」
思い巡らす僕の心には、平安がありませんでした。

そして眠りにつき、不思議と朝早くに目が覚めました。
今朝のデボーションはエレミヤ19章でした。
すると、あるみことばが心に留まりました。

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
 『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、
  わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。
  彼らがうなじのこわい者となって、
  わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」
    エレミヤ19:15


僕の心に言葉にできない恐れが迫ってきました。

はっきりと、僕自身こそ「わたし(神)のことばに聞き従おうとしない者」だと悟ったからでした。


確かに、毎朝聖書を開いていました。
あらかじめ決められた通読個所を読み進めていました。
しかし、読み進める僕の心には、神さまへの恐れ、聞き従う思いはありませんでした。

そして、自分の耳に易しい言葉だけを拾っては、心に根付かせずに過ごしていました。

ちなみに、エレミヤ書を読み進めながら、僕はいつも、
「どうしてこうも、イスラエルやユダの民は、心をかたくなにして、神さまの真実の言葉に心を留めないのだろう」とさばいていました。

しかし、さばいていた張本人こそが、全く神さまを恐れず、聞き従わぬ愚か者でした。

そのことに気付かされたとき、近頃僕の心に、本当の意味での平安がなかったことに納得しました。
僕は、知らず知らずの内に、またもや自分中心に生き、自分の思いと願いとのままに生きていたことを気付かされました。


僕は、祈りました。
「神さま、本当に、本当にごめんなさい。
どうか、僕からあなたの義の右の手を遠ざけないでください。
イエスさまの十字架の血潮によって僕を救ってください・・・僕を見捨てないでください。」


どうしてこうも、何度も同じ罪の中に陥ってしまうのか・・・

そんな自分自身に対して絶望しそうになってしまう一方で、こんな僕でもあきらめず、見捨てずに救ってくださるイエスさまにあって・・・僕はもう一度歩み直します。

大人

こんにちはー!

今日もこうしてブログを更新できること、神さまに感謝します。

春休みが始まって(月曜日から数えたら)4日。
意外とやることあって、結構忙しい日々です。。
今日は靴の中敷き買ったり(冷え性なもんで)、ドコモの携帯充電器買ったり。←どうでもいいw


来週の月曜からは、二週間近い旅行&病院見学&KGK全国集会もあります!

なのにぃぃぃっっΣ(´Д`lll)!!

体調が、なぜか良くならないんですよねー(T-T)
もう笑えるくらい、なんともならん。笑
なんなんだ!俺の体は!( ´∀`)

しっかり寝てるし、やたらと野菜もほおばってるんですけど、どうも寒気とだるさが抜けない。
困ったもんです。

だがしかし!!
神さまが必ず、万全の状態で長旅を始めさせて下さると信じます!


話は随分変るんですけど、ここ最近、教会の福音集会や祈り会に参加して、信仰の先輩方と触れ合う機会がたくさんありました。
また、おとといの夜は、心から尊敬しているクリスチャンの一人、「母さん」と電話しました。

実は、母さんと電話するのは結構久しぶり。
というのも、「自立するぞ!」ってある時ふいに決意してから(笑)、父さんや母さんにすぐに頼らないようにしよう!自分の足で立つ訓練をしていこう!って思ってたんです。

だけど、久しぶりに母さんと話して、話を聞いてもらったり、母さんの仕事の様子を聞いたりして、改めて本当に尊敬できる人だなって思いました。

そんな両親が与えられて、神さまに感謝しています。


そんな母さんとの会話の中で、
「大人って何だろう?」
っていうテーマがありました。


恥ずかしい話ですけど、僕は小さい頃からずっと、早く「大人」になりたいって思ってました。笑
色んなことすっ飛ばして、早く、格好いい?大人になって、自立したいって思ってました。

当時高校生だった僕が、
「早く大人になりたいなー」
なんて母さんに言った時、母さんは言っていました。

「なーにゆってんの。急いだってなれるもんじゃないよ。そんためには神さまがゆっくり時間をかけて、みっちを訓練するんだから。」
本当になーにゆってたんですかね。笑

電話しつつ、そんなことを思いだしていました。


母さんに言いました。

「大人って、なんなんだろうねー。」
(今言葉にしてみると、ちょっと恥ずかしい。笑)

そしたら、母さんは言いました。

「年をとれば大人になれるってわけじゃないよね。大人になるっていうのは、受ける人から、与える人に変えられていくってことだよね。」


そうかぁ。「受ける人から、与える人へ」かー。
電話を切っても、その言葉が心に残っていました。

そして、それからの二日、ゆっくり、じっくり「大人ってなんだろう?」って思い巡らしていました。


その中で、改めて母さんの言っていた言葉がしっくりきました。

受ける人から、与える人へ。

愛される人から、愛する人へ。

赦される人から、赦す人へ。

話す人から、聞く人へ。


そんな風に、変えられていくことなんだなって思いました。
思えば、僕は本当に今まで、たくさんのものを受けてきました。お金とか服とか、目に見えるものもそうだけど、それ以上に、愛情とか、教えとか、いろんな目に見えない素晴らしいものを受けてきました。

また、いっぱい失敗して、その度に怒られながらも、赦してもらいました。
そして、僕の取り留めのない話を、忍耐して聞いてもらいました。

そんな日々が、体験が積もり積もって、僕の心のコップにいっぱいになり、溢れて出してきた今だからこそ、大人への一歩をやっと踏み出せるのかなと思いました。


そしてさらに気付かされたのは、今まで誰よりも「与えて」くださったのは、イエスさまだったんだ!ということでした。

身勝手な僕を、ずっと諦めず愛して下さったイエスさま。
同じ失敗を、何度繰り返しても赦して下さったイエスさま。
そして、取り留めのない身勝手な僕の祈りを、ずっと聞いてくださったイエスさま。

そんなイエスさまのとの日々を通して、僕は少しずつ、少しずつ、「大人」へと変えられていくのだと思います。


満ちる

愛に生きる

こんばんは♪

今日も、このようにしてブログを更新出来ること、心から嬉しく思います。
全ては、神さまの恵みとあわれみのおかげです。感謝します。

今日は、朝一番のバスに乗り、旭川に帰ってきました。
久しぶりに見たアパートは、雪で埋まっていました。
特に、愛車のインプレッサは、窓しか見えませんでした。笑

えっさ、ほいさと、雪かきしていると、同じアパートの方が声を掛けてくださいました。
「今日来るはずの除雪の人達。まだ、来てませんね―。午前中に来るはずだったのに・・・」

そうなんですかーと言いながら、僕は神さまの御手を感じました。
なんと、僕が車の重い雪を払いのけ、やっとの思いで車を出した頃、除雪の人達が来てくれたんです。

まるで、
「あなたの車が出るまで待ってましたよ。」
というような、グッドタイミング。いや、ゴッドタイミング!

そのおかげで、車の回りも、玄関の回りも、全てきれいにしていただきました。
なんだか、「旭川に帰ってきて、お前一人になっても、私はいつもいっしょにいるよ。」と神さまが言ってくれた気がして、とっても嬉しかったです。

その後は、家の片づけして。
行きつけの美容室行って、仲良しの美容師さんと新年のおしゃべりして。
行きつけのほっともっと行って、ちょっと今日は背伸びして「特塩からあげ弁当+豚汁」♪
明日の勉強会に備えて、勉強して。
クリスチャンの信友と、久しぶりのスカイプして。

昨日までの、父母兄弟の大家族から一人離れても、変わらずに守って下さる神さまの温かさをほっこり感じていました。


かなーり前置きが長くなってしまいましたが、実は今日は2013年のみことば、ビジョンについて書こうと思います。

2013年のみことばは!!


実は、2012年と同じ♪笑

Ⅰコリント13章4~7節

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、
すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。



どうして、二年連続でこのみことばが与えられたか。
それは、去年の一年間は、愛について、「知る」ことでいっぱいいっぱいだったからです。

僕は、このみことばをいただいて、「愛を教えてください!」と祈りました。
そして、僕の思いもしなかった方法で、神さまは愛を教えてくださいました。

でも、愛を知れば知るほどに、僕は大きな真理に気付かされました。
それは、愛は「理屈」や「知識」ではなく、「行い」であり「実践」なのだということです。

一つ前の記事「Better Half」でも紹介した、「結婚することの意味」の中で、D・M・ロイドジョンズは次のように言っています。


それゆえ、愛とはなにか理屈だけのようなものではない、というのが原理である。
愛は言葉で言われるようなものではない。…
愛はこの世で最も実践的なものである…
それは、私たちの主ご自身の教えておられることである。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」(ヨハネ14:21)…
私たちが本当に愛しているかどうかを最終的に証しするのは、あなたやわたしが語る言葉ではなく、私たちの行う行動だからである。




僕がいくらここで、「愛とは○○だ」と言葉で表わしてみても、それは愛の「影」を追うようなものであり、「実体」はないのだということです。
愛が表わされるのは、僕自身の生活、人生に他なりません。
僕の心と体が、イエス・キリストの十字架の血潮によって洗いきよめられるその時。
湧き上がる思い、溢れる言葉、促される行動、それら一つ一つが、御霊によって導かれ、愛で満ちたものとなるのだと信じています。


「愛に生きる」
これが、今年のビジョンです。
僕の生活、人生、そしてその鏡としてのto GLORYが、神さまの大きな愛で満ち溢れたものとなりますように。


2013年1月5日
佐々木満ちる

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