Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

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考え方

こんばんは(^^)


今日の一日も、与えてくださった神さまに感謝します。


なんだか、今週の日曜日の礼拝で、藤木先生が語ってくださったメッセージがずーっと心に響いてます。笑

日が経つほどに、あれは、神さまが藤木先生を通して僕に語ってくださったんだなって気付かされています。


メッセージの中で、藤木先生は考え方について語ってくださいました。

最初に引用されていたのは、あの有名な言葉。

「人間は、考える葦である」

人間は、「葦」のように、折れやすく、傷つきやすく、儚い存在。
だけど、僕たちは「考える」ことができる。
だからこそ、考え方によってその人の人生は変わっていくってことを教えてくださいました。


そして、藤木先生は次の四つの考え方を紹介してくださいました。

1.プラス⇒マイナス

2.マイナス⇒プラス

3.マイナス⇒マイナス

4.プラス⇒プラス


1.プラス⇒マイナス
これは、例えば「昔は良かったけど、今はもうダメだ」っていう考え方。

2.マイナス⇒プラス
これは、今はダメだけど、頑張ろう!頑張ったら大丈夫!って考え方。
一見良い風に聞こえるけど、出発点がマイナスだから、なかなかプラスに転じない。
そして、マイナスの負荷が強いから、心が折れてしまいやすい。

3.マイナス⇒マイナス
簡単に言えば、「いやー、何したって結局ダメだよー」って感じかな。
ダメに始まって、ダメに終わってしまう。期待しないっていうのもそうなのかな?

4.プラス⇒プラス
最後のこの考え方を、藤木先生はクリスチャンとして求めていくべきだって教えてくださった。
たとえ目の前にあることが困難でも、それは主が与えてくださったものと信じて感謝する。
いつか幸せが来るって考えるのではなくて、今ここにいることを感謝して、今こそ神さまが与えてくださった最高のものだ!って感謝すること。


そして、僕も知っている有名な箇所を教えてくださった。
「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
Ⅰテサロニケ5:16-18



実は、「すべての事について」の「ついて」には、「~を越えて」って意味があるんだって。
イエスさまにあって、良いことも、嬉しいことも、そして辛いことや、苦しいことも、それらを感謝することを神さまは望んでおられる・・・


このことを説明するために、一つの話も教えてくださった。

クリスチャンの実業家として成功された方が、小さい頃に友だちにいじめられて、泣いてお母さんのところに行った。そして、お母さんにその思いを告げると、お母さんはこう言った。
「辛いだろうね。でも、お前を悪く言う人たちが、お前を立派にするんだよ。」



ここからは自分の話。


最近、ふとしたときに自分が抱いている思いを調べてみたら、驚くぐらいネガティブなことばかりだった。

「どうして、こんな状況なんだろう。」
「どうして、自分にはあれがないんだろう。」
「どうして、自分だけこんなに辛いんだろう。」

こんな風に、ネガティブに考えて、自分にないものばかりを思い巡らして、どんどん落ち込んでる自分に気付かされた。
そして、神さまにも心の中でいっぱいグチを言ってしまってた。。


だけど、改めて藤木先生が語ってくださったメッセージを思い出すとき、神さまはそんなこと望んでおられないんだって知る。


神さまが望んでおられることって、「すべてのことについて」感謝すること。
ないものではなく、あるものを感謝する。
できないことではなく、できない自分のために訓練してくださっていることを感謝する。
自分の思う状況じゃないことを嘆くんじゃなくて、この状況は神さまの愛ゆえに与えられた恵みだってことを感謝する。


そうして、イエスさまにあって、一つひとつの暗いものを、オセロみたいにひっくり返していくべきなんだって思う。
そして、地道にそれら一つひとつをひっくり返し続けるとき、オセロで端と端をとったみたいに、どんどん心が明るく、喜びでいっぱいになっていくんだって思う!!


イエスさまにあって、ただただ神さまを見上げて、明日も心を喜びで満たしていただきたいなー♪



満ちる

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見張り所

こんばんはー!!

今日も、守り導いて下さった神さまに感謝して。。
このブログを通して、神さまの素晴らしさが伝わりますように!!


今日の一日を振り返ると・・・
午前中はなかなかやる気スイッチが入りませんでした(T_T)

朝の11時前には一度休憩が入り、家に帰ってきて、近所のスーパーで菓子パンを買って、家に帰って食べようと思ったのに帰り道で食べ尽くして。笑

ソファに腰掛けて、祈りました。

「神さまー、僕のやる気スイッチ入れて下さーい!!」


その時、ふと自分の心の目が、神さまじゃなくて自分に向いてたことに気付きました。

神さまにとって大切なことって、僕のやる気スイッチが入るかどうかじゃなくて、僕が神さまを見上げて、求めて、その御心の内に歩むことなのに・・・って。。

「神さま、自分のことばかりの僕をゆるしてください。助けて下さい!力を与えてください!」
って祈って学校に戻り、なんとか、やるべきことをできました。


そして夜になり、教会の祈祷会に行ってきました。

したら、びっくりするぐらい、語られたメッセージが今の自分にぴったりでした。。

「神さまが語ってくださってる!!」
そう思って、喜びと反省の思いとで、語られるみことばに耳を澄ませました。


実はここ最近、思い出しては口ずさんでるみことばがありました。

私は、見張り所に立ち、
とりでにしかと立って見張り、
主が私に何を語り、
私の訴えに何と答えるかを見よう。
ハバクク2:1



神さまの素晴らしいご計画の内を歩むために。
神さまの言葉を待ち、神さまの時を待ちたい。
信じ、期待して一歩一歩進みたい!!

そんな思いで、口ずさんでいたみことば。
だけど、僕は何を見張るべきかを分かっていなかったのかもしれません。


僕が一番見張らなければならないもの。
気をつけなければならないもの。

それは周りの人でも、社会でもなくて。。

「自分」

でした。


気付かぬ内に、神さまから目を背けてしまう自分。
すぐ高慢になって、神さまを求めなくなって、何か目に見えるものに頼ろうとしてしまう自分。
怒りや憎しみとか、悪いものを貯めこみ、吐き出し、人を傷つけてしまう自分。


そんな真っ黒な自分自身こそ、僕が本当に見張らなければならないものなんだって改めて気付かされました。


そのために僕がすべきこと。
それは、毎日、一瞬一瞬、イエスさまの光の中に進み出ていくこと!
みことばや祈りを通して、イエスさまの光に照らされ、本当の自分を見つめ。
そして、そんな自分を救ってくださるイエスさまの愛の中で、きよめられ新しくされて、また一歩を踏み出していくこと!!

それが、僕がすべきこと。
そんな日々を通して育まれていく神さまとの正しい関係こそ、僕が立つべきところ=「見張り所」なんだって気付かされました!


神さま、今夜も祈祷会に行けて本当に感謝します!
明日も、みことばと祈りの中で僕を照らし、あなたの愛によって生きる力を与えてください。。



主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、
見張りをいたします。
詩篇5:3

新しく生きる

今日は主日礼拝。
愛する兄弟姉妹と共に、唯一の神であるお方を礼拝できることは、なんと幸いなことでしょうか。
この地上に生きていながら、イエス・キリストというお方にあって、既に永遠のいのちが与えられている者として、真の自由と喜びという光の中を歩んでいきたいです。

礼拝の後、藤木先生としばしお話する時間が与えられました。
藤木先生は、僕が心から敬愛するクリスチャンです。
これまで六年間の学生生活の中で、神愛キリスト教会に集い、藤木先生と関わることができたことは、かけがえのない恵みです。

今日、藤木先生からいただいたお言葉は、「霊に生きる」ということでした。
クリスチャンとして生きていく中で、神学という論理や、しるしや体験という感性は神から賜物として与えられており、育まれます。
しかし、それらに焦点を合わせ、追い求めていくことは実体のない影を追うようなことであり、空しいことなのだと教えられました。

そうではなく、「霊に生きる」こと。すなわち、イエス・キリストという、道・真理・いのちであられるお方一点に僕の全てを集中し、注いてくださる新しいいのち、「霊」によって生きることを真剣に求めていくように励ましてくださいました。

このことは、簡単なことではありません。
僕自身にとっては、論理や感性を追い求めていくことの方が、ずっと楽だからです。
なぜなら、それらはある意味で形を有しており、実感を伴い、追い求め易いからです。
しかし、そこに焦点を合わせるその時、神との生ける交わりはなく、イエス・キリストにある「いのち」はありません。
さらには、それらの先にあるのは、神の栄光ではなく、自分自身の栄光そして満足であり、愛もありません。決して役に立たないものとなってしまうのです。

そうではなく、イエス・キリストというお方お一人を、追い求めていくべきです。
そこには必ずしも、論理やしるしはありません。しかしこのことを、信仰をもって、真剣に祈り求めていくとき、神は人間的な次元を超越して豊かな交わりに招き入れてくださり、新しいいのち、「霊」によって全てを益と働かせてくださいます。
そこには、枯れることのない愛が絶えず満ち溢れ、人の心をも動かしていきます。

この与えられた人生の中で、「霊に生きる」。「イエス・キリストにあってのみ生きる」。という最も大切なことに、僕の全身全霊を捧げていきます。

「霊に燃え、主に仕えなさい。」ローマ12:10

教会

こんばんは!

こうして、二夜連続でブログを更新できること、神さまに感謝します。
なんだか、どうしても体のだるさが抜けない今日この頃ですが、信じて、癒されることを求めます!

今日は、午後13時から17時近くまで、4時間近く、教会のある兄弟と交わりの時を持たせていただきました。
この兄弟には、旭川に来てからの五年間、本当にずっとお世話になりっぱなしでした。

僕の学生生活の随所で、兄弟からの知恵に溢れた、そして愛のある訓戒をいただいてきました。

正直、いつもがいつも、頂く言葉をまっすぐ受け止められたわけではなく、時に葛藤し、時に傷つきながらも、その本質を突く言葉によって成長させていただきました。

その間、僕はたくさんの失敗をしました。
その時は、ただただ一生懸命だったんですけど、今思えば顔を覆いたくなるくらい。笑

きっと、幾度となく兄弟は、
「満ちるは何をやっとんじゃ!いい加減にしろ!」
と思われたことでしょう。笑

だけど、兄弟は僕を諦めず、この五年間、何度でも向き合ってくださいました。


ただただ、感謝の言葉が溢れます。


その感謝の言葉は、兄弟だけでなく、旭川神愛キリスト教会の皆さんに対して溢れるものです。
牧師一家を始め、僕を、僕ら兄弟を、これまでずっと愛し、支えてくださいました。

兄弟が、僕を呼び止め、話を聞いてくださいました。
姉妹が、おいしい手料理をタッパにつめて、くださいました。
ご家族で、家に招いてご飯を御馳走して下さいました。

未熟で、身勝手だった僕を、諦めず、愛し、支えてくださいました。

学生生活、まだ後一年間ありますが、僕は本当に旭川神愛キリスト教会に集うことができて、良かったと思います。
かけがえのない、神さまからの恵み(贈り物)です。


そんな日々を振り返る時、若き日に、心から信頼し、尊敬できるクリスチャンの群れ、教会に集うことがどれほど重要なのかということを知らされます。

若きクリスチャンにとって、何よりの励みは、イエスさまにある真実の幸せに溢れている兄弟姉妹の生活そのものなんです。
互いに、自分自身のように愛し合っている夫婦。
心から親を尊敬し、信頼している子どもたち。
そして、イエスさまにあって、互いに愛し合い、助け合う姿。

これらこそが、僕ら若きクリスチャンにとって一番の励みです。

だからこそ、こんな素敵な教会に集うという恵みをいただいた者として、僕自身も信仰の後輩たちに、同じ後ろ姿を見せられたらと思います。
素敵な信仰のバトンをいただいた者として、同じように引くついで行きたいと思うのです。



今の日本、コミュニティーという言葉が徐々に失われつつあると聞いています。
今までだったら普通だった、地域、職場などの多くのコミュニティーが分解し、個人主義に変わっているというのです。

でも、そんな時代だからこそ、僕はイエスさまを頭とした、教会の絆に期待しています。
たとえ血がつながっていなくても、僕らはイエスさまにあって、一つです。家族です。
その中で、互いに愛し合い、励まし合い、支え合う姿が、この日本にどんどん証されていくことを信じています。

ヨナ

こんばんは!

今夜もこうしてブログを更新できること、そしてブログを通して読んでくださっている皆さんとつながれることを、心から神さまに感謝します。

このブログが、ただただ神さまの素晴らしさ、栄光をあらわすものと、なりますように。
神さまの御心にかなったものと、なりますように。


今日は水曜日。教会の祈り会の日です。
先月はなかなか行けなかったのですが、今週は行くことができました♪


祈りの前に開かれたメッセージは、旧約聖書のヨナ書。

クリスチャンの方はもちろんですが、クリスチャンでない方も、もしかしたら一度は聞いたことがあるかもしれません。
それほど、ヨナ書っていうのは有名な箇所で、神さまの驚くべき奇跡が記されているんです。


あるところに、ヨナという預言者(神さまの言葉を聞き、人々に伝える人)がいました。
そして、神さまはヨナに語りました。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」(ヨナ書1:2)

だけど、ヨナは神さまの言葉を無視し、逃げてしまいます。
神さまの言葉を聞いていながら、彼は従わないのです。

しかし、そんなヨナに大きな大きな試練が訪れます。
神さまのお言葉から逃げて乗った船が、すさまじい嵐に巻き込まれるのです。

積荷を下せども下せども、嵐は収まる気配がありません。
そして、乗り組み員たちは、乗っている中の誰かが、神さまのみ怒りを買っているのだと考え、くじを引きます。

そして、そのくじは、ヨナに当たります。

きっとヨナは、くじを引く前から分かっていたのだと思います。
「自分だ。自分が神さまから逃げたからこうなってるんだ…。」って。

そしていよいよ、ヨナは自分自身の責任であることを受け止め、身を海に投げ出すのです。
すると、瞬く間に嵐は収まります。

話はここで終わりません!むしろここから!


神さまは、不思議な方法でヨナの命を取り留めさせてくださいます。
なんと!ヨナは、大きな大きな魚に飲み込まれるのです。

そして、大きな魚の中で、真っ暗闇な胃袋?の中で、三日三晩を過ごします。


今日の夜のメッセージは、魚の中でヨナが祈るシーンでした。

光の全く届かない海底で。
暗闇に覆われた魚の胃袋で。
初めて、ヨナは真実に気付かされます。

しかし、私の神、主よ。
あなたは私のいのちを
穴から引き揚げてくださいました。
私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、
あなたの聖なる宮に届きました。…
私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえをささげ、
私の誓いを果たしましょう。
救いは主のものです。」
ヨナ書2章6,7,9節

全くの絶望の淵に立たされ、自分のたましいの衰えと無力さを覚え、初めてヨナは神さまを思い出しました。
そして、自分がどれほど愚かであったか、罪深いものであったかを知ると同時に、こんな自分をなおも諦めず、大きな魚という驚くべき方法を用いて、救ってくださるお方を知ったのです。


実は、僕にも全く同じ経験があるんです。
三年前。
大学二年生の時。

僕は全くヨナと同じでした。
ヨナは預言者でしたが、僕は牧師っ子という、神さまのことばをいつも聞く立場に置いていただきながら、その生活、また心は、いつも自分勝手でした。
そして、自分がどれほど愚かで、罪深いかも知らずに、好き勝手に生きていました。

そんな僕が、大学二年になった時、いよいよ絶望の淵に立たされたんです。
「もう駄目だ、もう救われない。僕はもう天国に行くことはできない。」

自分で、自分自身を諦めてしまったその時、不思議と、ヨナと同じように藁をもすがる気持ちで祈っていました。

すると、その時、僕の心の深い深い暗闇が一瞬で晴れ、イエスさまの愛が僕を覆ってくださることを体験したのです。
「こんな僕を、まだ、あきらめずに愛してくださっているんだ!救いは、主にあるんだ!」
僕は驚きと共に、涙がめちゃくちゃ溢れました。笑
目を真っ赤にしながら、でも喜びが本当に満ち溢れました。


ヨナも、そして僕も、物事がうまくいっている時や何か楽しいことがある時は、自分自身の愚かさや罪深さに気付かされることは難しいものですよね。
真っ暗やみの中で、「救いなんてあるはずない!」って思う時。
絶望の淵に立たされた時。
そんな時、初めて人は、心からの救いを求めるんだと思います。

そして、イエスさまは、求める全ての人に、救いを与えてくださいます!
イエスさまにある天国のとびらは、全ての人に対して解き放たれています。




実は・・・この後ヨナは、神さまの言葉に聞き従って、ニネベに行くんです。
だけど、その結果として起こったことが、ヨナのイメージしてたことは違い、ヨナはすねるんですよね。笑

そして、僕も全く同じように、三年前に救われた後、僕のイメージとは全く違う方法で神さまが介入される日々の中で、すねたり、怒ったりしたこともありました。。


だけど、神さまはそれでも、僕らを愛し、あきらめず、僕らといつもともにいてくださいました。

神さまの愛は、本当に本当に大きいです。
そして、その大きな愛は、あなたにも注がれています。


僕は、イエスさまにある喜びがどれほど素晴らしいかを体験しているがゆえ、伝えずにはいられません。
もう、本当に一瞬一瞬、喜びが溢れてきます。


一人でも多くの人が、イエスさまという救い主に出会うことができますように。


満ちる

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