Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

喜び、祈り、感謝

こんばんは(^^)


今日で2016年度も終わりですね。


あっという間の一年だった。


正直、研修医1年目もそうだったけど、

小児科1年目もしんどかったですね。


初めて見るものだと、

その仕事をこなすことにいっぱいいっぱいになり、

全体像がなかなか見えませんでした。


最近になって、

やっと少しずつ、一つひとつのことに丁寧に向き合って、

消化できるようになってきました。

そんな小さな成長がとっても嬉しいです(^^)

神様に感謝。



そして、

やっとこさ、


妻と息子が帰ってくるーーー♪

本当に楽しみです。


みんなには、

「子供が生まれたら生活が変わるよー」

と言われているのですが、


まぁ、当然変わると思います。


ただ、息子は、神様のタイミングで、


僕ら夫婦に与えられたことを信じているので、


三人で神様を見上げて、


一歩ずつ進んでいきたいです。


きっとこれからは、父としてのことも書くことになるんだなー笑

なんだか不思議。




今日は、


妻が里帰りしていたこの4か月の中で、


神様が語ってくださった聖書のことばの一つを、

分かち合いたいと思います。


「いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべての事について、感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって

 神があなたがたに望んでおられることです。


 御霊を消してはなりません。」


 Ⅰテサロニケ5章16-20節


何度も聞いてきた聖書のことば(みことば)。

自分自身も、このみことばは覚えていました。


ただ、恥ずかしながら、

20節に、

「御霊を消してはなりません。」

と付け加えられていることは知りませんでした。



正直、僕が今日伝えたいことは、このことばの通りです。



ほんっっっとに心の底から思ったこと、

それは、


御霊と共に歩むためには、


自分自身から御霊を消さないためには、


「喜び、祈り、感謝」が不可欠なのだということです。



僕は大体6時に起きて、

23時に寝ます。


この約17時間の間、

僕はどれだけ、

御霊とともに、

御霊を消さず、

生きているのだろうかと思います。




今回の日々の中で、

信仰の友がくれた、

アーウィン・ラッツァー著の「悪習慣を断ち切る方法」

という本を読みました。



これは、ほんっっっとに素晴らしい本で、

たくさんのことを教えられましたが、

その一つが、


僕らの全ての時間の中で、

たくさんの誘惑や試みがあるということでした。



たとえば、

「なんで自分だけこんなにしんどいんだろう・・・」


僕は結構こんな風に自己憐憫に陥るのですが(笑)、

これだって一つの誘惑。


自分を憐れむ心、

その心を放っておくと、

神様に対する怒りや、周りの人たちに対する怒りに変わっていく。



食事だってそう。

僕は結構食事のことをないがしろにしてしまう。


「あーーー!!ごはん食べたい!食べたい!」

という誘惑にただただ身を任せ、

感謝なく、自分の食べたいものだけを食べるのか・・・

それとも祈りつつ健康を考えるのか・・・


(あーーー・・・今日の昼も夜も自分の好きなもの食べたから、

 自分で書いてすごい耳と心が痛い・・・)




あとは、僕は結構テレビとネットですね。

特に、忙しかった日の帰宅後や当直明け。


実際、テレビもネットもそれ自体は悪いものじゃないけど、

それに身を任せて、

時間を無駄遣いしたり、

心が引っ張られることは、

神様は喜ばれません。




なんか、僕の個人的な例ばかりを挙げてしまいましたが、

きっと皆さんも、

自分の時間を見つめ直した時に、


心から湧き上がったり、周りからの誘惑、試みが、

いかにたくさんあるかに気付くと思います。



聖書を読んでみると、

イエス様も、

僕らと同じように誘惑や試練にあっていることが分かります。


いや、僕ら以上にとっても強い誘惑や、辛い試練にあっている。



だから、それ自体は避けられないこと。



ただ、そこに身を委ねて、

神様のことを忘れ、

御霊を決してしまうのか。



それとも、喜び、祈り、感謝で勝利して、

御霊と共に歩むのか。


僕らはいつも試されています。



パウロは、このことばを命令形で書きました。


そう。

僕らが御霊と共に四六時中歩むには、


この三つを、

全生活を通して守り抜くほかないのです。



今回の日々で、

僕はこのことを教えられました。



正直に言って、

僕の17時間のうち、

どれほど、この三つで勝利しているかというと・・・




うーん・・・



なんとも言えませんが、


気付かせてくださった神様に感謝し、

明日の17時間も、

イエス様にあって勝利したいです♪


おやすみなさい(^^)

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従うこと。

こんばんは。

今夜もこのブログを更新できること、

心から神様に感謝します。



ここ最近の、

失意のトンネルを抜け、

妻と息子が里帰りしていている今は、

「ことば」の時なのかもしれません。


祈りつつ、神様が与えてくださることばを、

丁寧に綴っていきたいと思います。



今日は、当直明けでした。

昨夜は忙しく、身体も心も疲れ果てました。


帰りの足取りは重く、

いつもは気にならないリュックも、

かなり重く感じました。


家でゆっくりと眠った後、

行きつけの銭湯へ。


銭湯が好きなわりに、のぼせやすい僕は、

いつも少しお風呂に入っては、

上がって、壁にもたれてぼーっと上を見上げて、

また、少しお風呂に入る、

ということを繰り返します。



上を見上げると、

天井にある、曇りがかった小さな窓が見えました。


そこに映る空を見ながら、

深いためいきをつきながら祈りました。


「神様、、、なかなかしんどいです・・・」


身体と心の疲れがどっと押し寄せる時、

弱音を吐きたくなります。


「僕は、この地で、医師という仕事ずっと続けていけるのだろうか・・・」

と。



お風呂から上がると、

決まって、

350mlのカルピスを飲み、

今週のワンピースを読みなおします。笑



ワンピースは本当に面白い。

なんか、元気が出ます。



そして、帰りに妻とよくいった喫茶店に行き、

野菜のたっぷり入った定食を頼みました。


いろんな野菜の入ったおかずを、

ひとつずつ、神様に感謝して食べました。



食べ終わって一息つき、

僕はある本を開きました。


それは、数年前に北海道の信仰の友がプレゼントしてくれたもの。


彼は、僕が心から信頼している人で、

お互いの誕生日には信仰書を送り合っているんです。



ただ、活字慣れしていて、なおかつ信仰書をよく読む彼が送ってくれる本は、

当然文字数が多く・・・笑

正直挫折してしまった本もいくつかありました。

(もしこのブログを読んでいたら、この場を借りて・・・ごめんなさい。笑)


この本もその一つでした。


ボンヘッファーが書いた、

「キリストに従う」という本です。



実は、先日ネットで聞いた礼拝メッセージでこの本について語っておられ、

ふと思い出して、本を引っ張り出してきたんです。



この本は、

さっきの野菜たっぷりの定食と同じように、

僕の霊に必要な栄養素を与えてくれました。


本を読みながら、

改めて、

「キリストに従う」とはどういうことなのかを考えていました。



僕自身の歩みを振り返ると。



前回のブログの通り、


神様に出会い、

そして神様が僕のいのちに介入された中で、

ひとつひとつを手放させてくださいました。



そして、その後、

神様は僕に語りけてくださったのです。



「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」

「こわがらなくてよい。

 これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

ルカ5章4節、10節



語られた時は、正直何のことを言っておられるのか分かりませんでした。


でも、神様はそんな僕を知っておられ、

何度も、何度も、この箇所を示してくださり、


当時の僕が想定していた、

医師としても、クリスチャンとしても、

北海道に留まり続けるという道ではなく、


大阪という、縁もゆかりもない地に出ていくように導かれました。



あれから3年経ち、

さっきのように、僕は弱音を吐いています。


「僕はこの地で、、やっていけるのだろうか・・・」

「僕は医師として、、やっていけるのだろうか・・・」

疲れ果てた時、僕の口からは弱音がこぼれます。



しかし、僕はその度にこの神様の約束を思い出すんです。



そして、思い出すたびに、

人間が自分の力では絶対に得ることができない、

「平安」

という神様からの贈り物を受け取るんです。




「ここに遣わして下さったのは・・・神様だ。」

「僕を医師として召して下さったのは・・・神様だ。」


「神様が、僕を守って下さる。神様が僕を支えて下さる。」



僕がこの地で医師として立つ根拠は、

僕自身にはないのです。


約束してくださった、神様にあります。





先ほど、妻と電話で話していました。

今の淀川キリスト教病院小児科での研修を終えた後に、

僕らはどこに進んでいくことが良いのだろうということでした。



正直、僕も妻も、

結婚して、子供も生まれた中で、

心には、人間的な「安全本能」が作動します。



「できるなら、あまり変化のないほうが良い・・・」

「できるなら、あまり負担のかからない場所が良い・・・」




一方で、ふたりでゆっくりと分かち合う中で、

改めて、そうではなく、神様に聞くことに導かれました。



僕らの内側から語り掛けてくる「安全本能」や、

周りの人たちのことばや状況という「常識」は、

一見、その通りに思えます。

あたかもそれが答えであるかのように思えます。



しかし、違うんです。


僕らは、神様に生かされ、神様に導かれている。

神様が、イエス・キリストを通して私たちを救い、

神様とともに生きる人生に召して下さった中で、

安全本能や常識で決断してはいけないのです。


そこには、さっき書いた、

「平安」はありません。



神様に求めます。


この先、僕らの家族に神様が持っておられる計画は、

どこにあるのかを、神様に本気で求めていきます。



神様が、僕らに用意しておられる計画は、

僕らの思いをはるかに超えて、

素晴らしいものだから。




「わたし(神様)の思いは、

 あなたがたの思いと異なり、

 わたしの道は、

 あなたがたの道と異なるからだ。

 -主の御告げ-


 天が地よりも高いように、

 わたしの道は、

 あなたがたの道よりも高く、

 わたしの思いは、

 あなたがたの思いよりも高い。


 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、

 必ず地を潤し、

 それに物を生えさえ、芽を出させ、

 種蒔く者には種を与え、

 食べる者にはパンを与える。

 そのように、

 わたしの口から出るわたしのことばも、

 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、

 わたしの言い送った事を成功させる。」


 イザヤ55章8-11節

「私の羊を飼いなさい。」

おはようございます(^^)

今日はお休み。

ほんっとーーーーーーに嬉しい(T_T)

幸せです。。


朝もゆっくりと目ざめ、ピアノを弾きつつ賛美して、時間を気にせずデボーションし。

思うままに妻と分かち合う。。


本当にお休みが大好きです。



メノナイトブラザレン教団の福音神学校の聴講生をしている妻は、ついさっき家を出て。

今はひとりです。


そして、神様と二人っきりの時間。
(「二人っきり」で合ってるのかな?)


最近あったことや、自分が話したことば、自分に伝えられたことば、抱いていた感情など、少しずつ心の奥底から湧き上がってくる。

ひとつずつ、祈りつつ明るみに出していくとき、自分の中の至らなさに気付かされます。


最近、心に留まった箇所があります。


「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、

 へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

                             ピリピ2:2

※虚栄=見栄(自分がすごい!って取り繕う心)


すごい、心に留まるというか、刺さりました。


正直・・・

小児科医として働く中で。

淀川キリスト教病院の中でクリスチャンスタッフとして働く中で。

石橋キリスト教会で仕える中で。


自分に2つの心があることを感じます。


1つは、ただただ神様を愛し、人を愛し、仕えていきたいという心。


でも、もう1つは、自分が目の前の仕事や奉仕をしていく中で、どのような評価になるかなとか、どのような結果を残せるかなとか、そんな心。





神様が僕を置いて下さっているこの3つの場所。

僕は、神様がここに導いて下さったことを確信していて。

僕はよく、

「(ここで神様が与えておられる)僕がやるべきこと、ビジョンは何だろう?」

って考えます。


「(ここで神様を信じて)僕は何をしていけばいいんだろう?」

って考えます。


これまで、こうやって考えることに何の違和感も感じていなかったし、これでいいと思っていました。


でも、こんな風に「僕がどうしていく?」って考えると。

「自分」という人間を中心に考えていくと。

どこかでズレが生じてくるんです。



まず、「僕がどうしていく?」って考えて、行動し、仮にうまくいったら、僕は「僕」を誇ってしまう。。。

僕が頑張ったから、僕が特別だから、僕が人より優れているから、そんな考えが気付かぬうちに心に生まれてきてしまう。


そして、周りの人を裁いてしまう。

「あなた」はどうするの?

「あなた」がやるべきことはできているの?

「僕」中心に考えるからこそ、「あなた」中心に考えることを求めてしまうし、「あなた」ができているかどうかが気になり、裁いたり、逆にできてない自分に落ち込んでしまったりする。。


そして正直、最後まで走り続けることができません。
どんなに熱意・体力・気力があっても、自分の力には限界があります。




でも、聖書を通して神様は語って下さっている。

「何事でも、自己中心や虚栄からしてはいけない。」

「自分の心をいつも見張りなさい。」

「あなたが、「自分が人よりも優っている」という考えに少しでも陥ってるなら、それは違う。」

「それは私の喜ぶ心ではないよ。」





それなら、僕はどんな風にクリスチャンとして生きていけばいいんだろう。

自己中心や虚栄から解放されるためにはどうしたらいいんだろう。




もちろん、神様はその答えも聖書を通して語って下さっています。

「イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」」

                        ヨハネ21:17



「わたしの羊を飼いなさい。」って、正直僕もどんな意味か分かっていなかった。

でも、イエス様のことばをゆっくり味わうとき、この言葉が心に染みわたってくる。




「わたしの羊を飼いなさい。」


自分中心ではなく、イエス様中心に生きていくこと。


イエス様にあって、天の父なる神様の思いを、自分の思いに。

イエス様にあって、天の父なる神様の愛を、自分の愛に。



「この遣わされた場所で、「僕」がどうに生きていくのか。」

ではなくて。

「この遣わされた場所で、「イエス様」が僕を通してどう働かれていくのか。」



「この導かれた人に、「僕」がどう接していくのか。」

ではなくて。

「この導かれた人に、「イエス様」はどんな思いを抱いているのか。」


愛しい思い。

寄り添いたいという思い。

成長してほしいという思い。


そんな「イエス様」の思いを受け取り、そしてその思いで接していく。



そうしていくとき、自分中心の考えや虚栄は消えていき、代わりに平安と喜びで満たされていくんです。




最初にも言いましたが、正直、、、、僕はまだまだ2つの心で揺れています。



でも、日々の生活の中で、イエス様と一歩、また一歩進んでいくとき。

イエス様にもっともっと近づき、似せられ。

イエス様のLifeが僕を通してこの世界に溢れ流れでていくことを信じています。

主語

こんにちは!
今日は久しぶりのお休みで、ゆっくり過ごしています。


前回の更新から一カ月空いてしまい、気づけば僕は27歳になりました。


年を重ねるというのは不思議なことですね。
小さい頃にイメージしていた「27歳」はとても大きなお兄さんでした。
その年に自分がなり、結婚をして妻をめとり、医師として働いていることを思うと、感慨深い気持ちもします。


最近は、もっぱら小児科の研修に集中しています。
ひとつずつ、知識と技術を大切にして、一歩一歩進んでいくほかありません。
後ろを振り返らず、イエス様にあって前だけを見て、一歩ずつ。


そんな日々の中で、僕の心にはたくさんの聖書のことばが落ちてきて、力づけてくれます。
本当に、聖書のことばは素晴らしいです。
目に見えない「パン」のごとく、僕の心にエネルギーが湧き上がっていきます。


今日は、その中のひとつのことばをピックアップして分かち合いたいと思います。


「主が家を建てるのでなければ、
 立てる者の働きはむなしい。」

          詩篇127篇1節

有名なことばです。

僕が今通っている、メノナイトブラザレン教団石橋キリスト教会の今年度のテーマ聖句でもあります。

このことばを思いめぐらすとき、自分のこれまでのクリスチャンとして歩んできた道のりが思い出されました。


僕がイエスさまに本当の意味で出会ったのは、2010年の3月11日でした。
それまで、クリスチャンホームに生まれて、両親の愛をいっぱい受けて生きていながら、自分は神様に背を向けて歩き続けていました。

それでも、神様は僕を見捨てず、3月10日の朝早くに僕はイエスさまに出会いました。
2000年前に亡くなったはずのイエスさまが、今も生きておられ、僕の心に触れてくださったのです。

あの日を境に、僕はその後の人生を全てイエスさまのためにささげていきたいと思いました。


祈りに励みました。

聖書をたくさん読みました。
聖書のことばに従おうと一生懸命努力しました。

教会の集まりにも可能な限り出席しました。


でも、ある時息切れしてきたのです。
不思議でした。
なぜ、僕は神様を信じて、イエスさまを慕い求めて歩いているのに、息切れするのだろう。
聖書のことば一つひとつを大切にして、守ろうとしているのに、僕は疲れているのだろう。


その時神様に教えていただいたのは、
「満ちるが頑張ってすることじゃない。私があなたを助け、私があなたを導き、私があなたを通してことをなす。」
ということでした。


ここは、とても重要なポイントです。
イエス様を信じて、救われたとしても、この部分を理解していないと走り続けることができません。

この僕の人生の主語が「神様」に変わらなければいけない。
いや、変わるように日々祈り求めていなければなりません。

僕の人生の主語が「僕」であり続ける限り、僕にとって神様は、僕のビジョンを実現してくださる道具になってしまうのです。


まるで、神社で手を合わせて願いを伝えるのと同じように。


僕らクリスチャンにとって、「神様」は、僕らの願いをなんでも答えてくれる存在ではありません。
完全に主語が、「僕」から「神様」に変わるのです。

「神様が、僕に用意しておられる計画がなされますように。」
「神様が、僕を通してその素晴らしさを表してくださいますように。」

全ては神様が主語に変わっていく。


ここで、もう一度最初のことばに戻ります。
「主が家を建てるのでなければ、
 建てる者の働きはむなしい。」



本当にその通りです。


僕が今大阪にいることの主語は、「神様」です。
神様が、僕を大阪の地に導き、ひとつひとつの出会いを導かれました。

僕が今淀川キリスト教病院小児科で働いていることの主語も、「神様」です。
神様が小児科医として歩んでいく中で、イエスさまのすばらしさを表す計画を用意しておられることを心から信じています。

僕が今本当に素敵な妻と結婚し生活していることの主語も、「神様」です。
神様が素敵な女性との結婚を導かれました。


ひとつずつ、ひとつずつ、自分の人生の主語を「僕」「私」から「神様」に委ねていきましょう。

神様は、本当に良いお方で、委ねたその人の人生を必ずや最高の人生に変えてくださいます。
神様は僕らにとって何が良いか、何が良くないかを知っておられるお方です。
そのお方に、僕らの人生を委ねていきましょう。


あなたの人生のひとつひとつの主語が、「神様」に変わり、神様があなたを通して素晴らしい実を結んでくださいますように。


満ちる

喜んで忍耐する。

こんにちは!


今日もこうしてブログを更新できることを、心から感謝します。
イエス様が助けてくださり、ひとつひとつのことばが導かれ、これらのことばを必要としている方々のもとに届きますように。


僕は今、ロイヤルホストで英語の論文と格闘しています。


英語はそれほど得意ではありませんが、さらにそれが論文という形をとり、専門的な用語が盛りだくさんで、なおかつ統計学の知識も必要です。

僕の集中力も限界がありますので、小分けにして、少しずつ、少しずつこの論文と格闘して5日目。

読んで全然分からず、
「う゛ぅーーーー・・・・・」

と心の声がこぼれることもしばしば。


忍耐力が必要です。




イエス様を信じ、聖書を読んでいると、よく「忍耐」ということばが出てくることに気付かされます。


そしてイエス様の人生を知るとき、ご自身が忍耐を本当に大切しておられたことに気付かされます。


忍耐は、その人の人格が練られ、成長するために必要不可欠です。
何も忍耐せず、欲しいまま、思うままに手にすることができたとしたら、その人は本当に自分勝手になってしまうでしょう。


忍耐し、歯をくいしばって、そのことに向き合うときに、神様は少しずつ少しずつ心を造り替えて下さいます。


僕が、忍耐する時にとても大切にしていることは、「喜んで」忍耐することです。


相反するような二つのことばですが、とても大切なことです。



なぜ、喜ぶことができるのか?

それは、この忍耐すべきことを与えてくださった神様が、この忍耐の後に必ず素晴らしいものを与えてくださると信じているからです。


たとえば、僕の今の論文との格闘も、英語や専門的な知識、統計学に向き合うことは、神様が僕に与えて下さったものだと信じています。
神様は、今の僕にとって本当に必要なものだからこそ、与えてくださったのだと受け取っています

そして、ここで得た知識や技術は、僕のこれからの人生にとって有益なもので、神様は必ずやこの論文との格闘の時間をプラスに用いて下さると信じているんです。


それは、このような知識に留まらず。


忍耐して向き合った人間関係が、自分の人格が柔軟にしたり、その関係から新しい出会いに導かれたり。

忍耐して続けた働きが、自分の次のステップにつなっていったり。


いろんな形をとって、神様は忍耐の先に良いものを与えてくださいます。


そのことを思うとき、僕はこの忍耐を喜んで受け入れることができます。

むしろ、「神様は良いお方だ!」という希望を持たなければ、僕は貧弱なので歯を食いしばって忍耐し続けることができません。



神様は本当に良いお方です。

僕が今忍耐しているものを喜んで大切にしているように、あなたの目の前に神様がおいて下さっている「忍耐」を喜び、大切にしてください。

その忍耐の先に、神様は必ず良いものを用意しておられます。

そのことを、お互いに信じて疑わず、一歩一歩進んでいきましょう。



「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」
へブル人への手紙10章36節

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