Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

水の上を歩くようなもの。

こんにちは!


ご無沙汰しております。


2016年もあと少しですね。


皆様にとって、2016年はどんな1年だったでしょうか?



この年の最後に、神様に助け守られた1年を振り返り、ブログを書きたいと思います。



少し話は前後しますが、最近少しずつ、このブログに対する思いが変わってきました。


以前は、「書かなければ!」という義務感みたいな思いがあって、更新していないと何となく後ろめたさを感じることもありました。

でも、そういった思いで書き始めても、書き終えることができないことがしばしばありました。


そういうことを繰り返しているうちに、


このブログは、神様のものであって、

自分という一人の人間に、

神様が働いてくださる中で、

思いや言葉が湧き上がってくることを待ち詫び、


湧き上がってくるその時に喜びをもって、

祈りつつ、

丁寧に綴っていけばいいのだと思うようになりました。



これは、自分にとって大きな変化でした。



自分のいのち、

自分の生活、

自分の人生の主導権が、


神様に渡されれば、渡されるほど、僕は本当に自由になっています。



2016年、今も生きて働いておられる神様のすばらしさを、

全身全霊で感じた一年でした。




今日は、その一つのお話を書かせていただきたいと思います。


このブログを通して、

神様のすばらしさが、その大きな力とご計画の中で届くべき人に届きますように。




僕は、お世辞でもメンタルが強い方ではありません。


不安な気持ちに陥りやすいですし、心配性なところもあります。


そんな僕が、医師として働いて3年間。

正直荷が重いと感じたことは何度もありました。


それだけでなく、

淀川キリスト教病院でのクリスチャンスタッフとしての集まりのリードや、

石橋キリスト教会での賛美リードなど。


「自分にはできない」と逃げだしたくなったこともありました。



でも、2016年の秋ごろ、聖書の次のことばが、僕の心に留まりました。



イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。

「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」

イエスは彼に言われた。

「行って、直してあげよう。」

しかし、百人隊長は答えて言った。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは治ります。・・・」 ・・・

それから、イエスは百人隊長に言われた。

「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」

すると、ちょうどその時、そのしもべは癒された。


マタイの福音書8章5-8、13節



クリスチャンの方であれば、一度は聞いたことがある話だと思います。



僕も、何度も読んだことがある箇所でした。


だけど、あの時、百人隊長のこのことばが僕の心に響きました。


「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは治ります。」



あのとき、

「このことばこそ、『信仰』なんだ!!!」

と強く感じ、感動したことを覚えています。



とてもシンプルだけど、信仰とはこういうこと。

まず、僕に必要なのは、ただ天の父なる神様の、イエス様の、「ことば」、「約束」、「ご命令」。



それが僕に与えられたのなら、与えられているのなら、その時点ですべての問題は解決しているのです。



神様のことばは、約束は、ご命令は絶対で、神様に不可能なことはないからです。



このシンプルな関係こそ、神様と僕との正しい関係なのだと感じたのです。



逆に言うと、僕らは神様のことばを待たずに、自分勝手に行動してしまうことがあります。

「これは、世間一般に良いと思われることだから。」

「だって、聖書に書いてあることだから。」


でも、本当に大事なことは、それが神様が、僕に、与えてくださっていることなのかということ。


これがすべて。



僕自身、「これは良いことだから!正しいことだから!」という動機の中で、

自分の情熱と体力と能力とで、挑戦したことがいくつもありました。

でも、そのたびに挫折したり、失敗したり、長続きしなかったり。

だって、僕自身にはそれらを成し遂げる力がないから。


そんなことを繰り返すうちに、百人隊長のことばの意味が、僕自身に強く迫ってきたのです。


僕に本当に必要なのは、

イエス様の十字架における死と復活によって、

父なる神様との関係を回復した中で、

聖霊を通して神様の御思いを知るために祈り、

そして、与えられた神様のことばを、約束を、ご命令を、


ただただ信じること。


それが一度与えられたのなら、決して疑わず、


信じて前を向いて歩き続けること。


目の前のことに誠実に、忠実に向き合うこと。



でも、僕らは弱いもので、一度与えられた神様からのことばを、疑ったり、つぶやいたりして、失敗してしまうこともあります。


同じマタイの福音書に次のような話があります。

舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。

弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、

「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声をあげた。

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。

「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

イエスは「来なさい」と言われた。

そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、

「主よ。助けてください」と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」


マタイの福音書14章24~31節




ペテロは、百人隊長と同じように、イエス様にことばを求めました。

そして、イエス様はペテロの思いを受け取り、「来なさい。」と一言お伝えになりました。


この時点で、全ての問題は解決していたはずでした。

ペテロは、そのことばを信じるとき、水の上を歩いてイエスさまのもとにたどり着けるはずでした。


「水の上を歩くこと」。

それは、人間的に考えれば不可能なこと。

でも、イエス様には、神様にはできるのです。


実際に、ペテロは最初の数歩は水の上を歩くことができました。

しかし、ペテロは、周りの風を見て、こわくなり、沈みかけたのです。


「周りの風」は、僕らで言えば、周りの状況や、周りの人たちの言葉かもしれません。

「そんなの無理だよ。」

「これから先の将来、不安じゃないの??」

僕らにかけられるいろんな言葉が、僕らを取り巻くいろんな状況が、僕らを不安にさせ、恐れさせます。

そして、気付かぬうちに、神様のことばという最も信頼できるものを、忘れてしまいます。

そして、僕らは沈み「かける」のです。


でも、イエス様は愛に満ちたお方で、神様を信じる人たちを完全に沈ませることはなさいません。

このペテロの話の通り、イエス様はどんな時も必ず一緒にいてくださり、沈みそうな僕らの手をしっかりと握り、また水の上に引き上げてくださるお方。


聖書のこの二つの話は、2016年の僕にとって、本当に大切なものでした。


小児科医として。

淀川キリスト教病院のクリスチャンスタッフとして。

石橋キリスト教会の一員として。

夫として。

任されているひとつひとつのことは、僕にとって、ペテロが水の上を歩くようなものでした。

「僕にできるのだろうか。」

そんな思いが湧き上がり、時に不安になったり、落ち込んだりすることもありました。


しかし、そのたびに、僕はこの2つの箇所を思い出しました。

そして、僕が今与えられている神様からのことばを思い出しました。


神様のことばは、約束は、ご命令は、絶対に揺るぐことがありません。

この地上にあるどんなものよりも、確かなものです。


僕はただ、神様からのことばを。

信じて、握って、今日も生きます。


どうか、神様が神様を信じるひとりひとりを通して、2017年もそのすばらしいご計画を成し遂げてくださいますように。


神様を信じるひとりひとりが、まず神様のことばを待ち望み、受け取り、疑わず、信じて一歩ずつ進んでいくことができますように。


2017年も、心から神様に期待!!

来年もよろしくお願いします。

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淀川キリスト教病院

こんにちは!


二日連続の更新ができることを、心から感謝します。


連日、熊本で起こった地震についての報道が続いています。

被災された方々を思うとき、心が痛みます。

僕が今できることは、祈ること、僕が等身大でできる支援をすること、そして僕が今すべきことを誠実にし続けることだと思います。


東日本大震災のとき、僕は旭川に居ました。

ニュースを見ていると、居てもたっても居られなくなりました。

すぐにでも東北に行って、何かしようと本気で思いました。


ただ、その中で教えられたのは、そんな時こそ、今目の前にあることを誠実にし続けることの大切さでした。


僕は今、遣わされている淀川キリスト教病院で子供たち一人ひとり、スタッフ一人ひとりを大切にすることもまた、なすべきことなのだと感じています。

熊本で被災された方々のもとに、必要なものが必要な時に届きますように。



前置きが長くなってしまいましたが、今日は僕が勤めている「淀川キリスト教病院」について書きたいと思います。

僕がこの病院で働き始めたのは3年前ですから、そんなにこの病院を深く知っているわけではありません。


それでも、はっきりと確信していることが一つあります。

それは、この病院の創立し、その後もリーダーシップを取った、ブラウン先生という方は、イエス・キリストを本気で信じ、従っていた方だということです。


ブラウン先生は既に天国に行かれましたが、時折、先生のお話を聞く機会があります。
一つひとつの話を聞くたびに、僕は本当に励まされます。


たとえば、ブラウン先生は淀川キリスト教病院を創立する時、大阪をめぐり、本当に医療を必要としている場所を探されたそうです。
そして、今建っている場所こそ、先生が祈りつつ決められた場所でした。


また、「院長室」についても、ブラウン先生らしいエピソードがあります。

当時、ブラウン先生がおられた院長室は、病院の外にある小さなプレハブにあったそうです。

決して豪華な広々とした部屋ではなかったそうで、スタッフから何度かプレハブから病院に移動するように提案されたそうですが、先生はこうおっしゃったそうです。

「私はいいのです。病院のスペースは患者さんのためにあります。一人でも多くの人を受け入れるために、この病院を用いるべきです。」


ブラウン先生はこの病院を通して、多くの人にイエス・キリストの愛を知ってほしいと願っておられた方でした。

そして、その願いは神様に受け入れられ、この病院を通して、多くのスタッフ・患者さんがイエス様の愛に触れられ、変えられたそうです。


ブラウン先生のお話を聞くとき、いつもそのお姿とイエス様のお姿が重なります。


へりくだり、人に仕える姿。


病が癒され、笑顔になるため、元気になるため。

ブラウン先生は人生をかけて、イエス様の愛を示されました。


ブラウン先生に会ってみたかったな。


でも、ブラウン先生が本気で信じて従ったイエス様は、今も生きておられます。




それからしばらくの時を経て、僕はこの病院に導かれました。

これは、偶然ではありません。

神様が僕をこの病院に導き、ブラウン先生の意思を引き継ぎ、この病院を通してイエス様の愛を伝えることを願っておられると感じます。



淀川キリスト教病院には、一つのことばがあります。

「まず礼拝、互いにあいさつ、愛のわざ」



これはブラウン先生が語られたものなのかは分かりませんが、このことばには、ブラウン先生のビジョンがはっきりと表されているように感じます。


「まず礼拝」



そうです。

「まず礼拝」がなければ、この病院はイエス様の愛を証していくことはできません。


なぜなら、愛はすべて神様から与えられるからです。

医師も、看護師も、セラピストも、薬剤師も、介護師も、検査技師も、放射線技師も、事務職も、その他すべてのスタッフを通して、イエス様の愛を伝えていくためには、「まず礼拝」が欠かせません。


真の父なる神様を、イエス・キリストにあって礼拝し、愛と仕える喜びを受け取らない限り、本当の意味で仕えることができません。


そして、神様を礼拝した上で初めて、僕らは互いにあいさつをし(互いを知り)、愛のわざを成し遂げていくことができるのだと確信しています。




ご承知の通り、僕はこの病院で下っ端の中の下っ端です。


でも、下っ端だからこそ、医療の現場の最前線にいるからこそ、イエス様の愛を直接証することができます。
それは、本当に貴重なことですし、喜び、大切にしていきたいと思っています。


淀川キリスト教病院を通して、父なる神様のご計画が成されますように。

北海道と大阪

こんばんは(^^)


休日の夜。



今日は一日ゆっくり休むことができました。

嬉しかった。

「休む」って、簡単なようで、実は難しい気もします。

特に僕みたいに落ち着きのない性格の人にとっては、身体と心を落ち着かせることは実は難しいこと。


だから、僕は休みには自分のペースを大事にしようと思っています。

仕事をしていると、どうしても自分のペースではなく、周りのペースに引っ張られていくから。

ある時は急がなければいけないし、ある時は待たなければいけない。

自分の身体と心をいたわって、歩きたいときに歩き、休みたいときに休むことが、僕の今の休日の過ごし方です。



とかいっていますが、果たして僕の身体と心は休まったのか・・・。




前回の記事は、「変えられえいく。」:というタイトルで思いっきり書いたわけですが。

書いた後に、言葉が自分に跳ね返ってきて、結構息苦しくなりました。

正直、私は未熟で弱すぎる。

僕が何かわかったと思うなら、それはわかっていないことのしるしです。

今も、本当にたくさん失敗して、ため息をついて、生きています。

それでも、イエス様は僕にとって、絶対に揺らがない救い主であることは変わりません。

イエス様を求め続け、心にその光を受け取り続けたい。



さて、今日のタイトルは「北海道と大阪」。

実は、この土日は大学時代の友人の結婚式で北海道に帰っていたんです。


早いもので大阪に来て、1か月半。

こうして時間が経ってから北海道に戻ってみると、自分にとって北海道はどういう場所なのか、そして大阪はどういう場所なのかを考えることができました。




北海道は、言わずもがな僕のただ一つの故郷です。

僕が大学6年までの24年間生活した場所。

広大な大地であり、少し足を延ばせば大きな大きな空や山に出会える。

音は本当に静かで、夏は虫の鳴き声、冬は雪の上を歩く人たちの足音が聞こえる。


そんな北海道は、僕の原点ともいえる場所。

あの場所には楽しい思い出も、悲しい思い出もたくさん詰まっている。

そこで、本当に大切な人たちにも出会ってきたし、思い出したくないような失敗だっていっぱいした。


そんな北海道に、今になって帰ってみるととっても安心するとともに、「佐々木満ちる」がしっかりと地面に落ちてくる。

「あぁ・・・・・俺は本当に小さな、本当に欠けだらけな人間なんだな。」

心がすーっと落ちてくる。




一方で、1年半住んでいる大阪は対照的だ。

ここには、まだ少しの思い出しかないけれど、イエス様と歩んできた思い出がぎっしり詰まってる。

なぜって、イエス様が僕をこの地に導かれたから。

イエス様が大阪に行くように命じられ、僕と人をつないでくださり、たくさんの素晴らしいもの見せてくださった。

信じてこの地に来て、本当に良かったって思う。



僕が今年出会った素敵なことばである、

「真理は二つの中心をもった楕円である。」

ということばのように、僕にとって北海道と大阪の両方が大切なのだと思う。



僕の心をぐっと地に引き寄せ、神様に生かされている小さな小さな存在であることを教えてくれる北海道。

一方で、僕の心が自然と神様に向かい、神様の計画が成し遂げられるためにすべてをささげていきたいと思わせてくれる大阪。


この二つの地が与えられていることを、心から感謝します。




イエス様は、人間の中で最もバランス感覚に優れた人だったのだと思う。

あらゆる物事における「二つの中心」をバランスよく大切にすることができたお方。



僕も北海道と大阪をバランスよく大切にしていきたいな。

働くということ。

こんばんはぁーーー!



ふぅーーーー・・・・・・




お昼過ぎに仕事をいったん終えて、家に帰って、ゆっくりお風呂に入っていました。



今週も忙しかったぁーーーー(T_T)

前半戦は、カンファや残業でバタバタ。

後半戦は脳外科当直や新年会の芸だしでバタバタ。
(あっ、今回の芸だしはそこそこうけた?!←どうでもいい。笑)



そして今夜は、土曜日の当直です。



バタバタバタ・・・・・・
(忙しいことを、「バタバタ」って言い始めた人・・・センスあるな。笑)




今夜は、そんな忙しい日々の中でも、神様が教えてくださった、「働くということ。」についてシェアさせていただきたいと思います。



僕は小さいころから、知らぬ間に、
「働くということは、辛いこと。苦しいことを忍耐すること。」
というイメージがありました。



なんでだろう。



そして実際に働いてみて、楽しいことだけではなく、むしろ辛いこと、苦しいこと、忍耐することが多い気もします。


最近、youtubeで活躍する人たちを取り上げた宣伝でこんな言葉をみました。


「好きなことで生きていく!」


これは、本当に素晴らしいことだと思う。

ただ、一言だけ追加して言いたくなる。笑



当たり前だけど、好きなことだけじゃ生きていけない。

それだけでは生活することはできない。



サルーキ=というクリスチャンバンドの、「生活」という歌の歌詞を思い出す。


何にしたって生活をしていかなければならない。
やりたいことのために、やりたくないこともやる。
全てがやりたいことだけなら、いいのにな。
やりたいことの中にも、やりたくないこともある。





本当にそう思う。

初めてこの歌を聞いた時、ほんとにほんとにそうだ!!って心の中で大声を出した。




ここは、とっても、とっても重要な点だと思う。




ここは、クリスチャンとして、絶対に勘違いしてはいけない点だと思う。




ある人は、クリスチャンになることで、苦労や忍耐から完全に開放されると思っているかもしれない。


だけど、はっきり言う。


そんなこと、あるはずない。笑


むしろ、クリスチャンになって、イエス・キリストに従うときに、きっと苦労や忍耐は増えると思う。

周りの人と全く違う選択をすることで、ある時は後ろ指をさされることだってある。




だとしたら、なんのために僕はクリスチャンであるのだろうか。

あり続けたいと思うのだろうか。




ここには、「苦労」や「忍耐」に対する、まったくの発想の転換が求められる。




そもそも、本当に「苦労」や「忍耐」がないことが幸せなんだろうかと問いたい。



苦労を知らず、生まれてから衣食住何一つ困らず、エスカレーター式に仕事も決まっていった人がいたとして。

人の痛みを知らず、人の涙を知らずに生きたとして。


その人は、どんな人間になるだろう。


間違いなく、世間や人の痛みを知らない孤独なぼっちゃんになるだろう。



そんな中で、僕は声を大にしていいたい。



正直に言って、人は苦労や痛みを知らなければ、変わることができない本当に身勝手な生き物だと思う。



うん。

僕らには、苦労や痛みは必要なんだ。



でも、もっと大切なことは、これらの苦労や痛みをどのように乗り越えるかということ。


ある人は、さっきの繰り返しになるけど、楽な道へ、広い道へと逃げ続けて生きるかもしれない。

でも、逃げたつけは必ず来る。

そして先延ばしにするほど、年を重ねるほどに、そのつけはお大きくなっていく。




ある人は、苦労や痛みを、ほかのもので紛らわそうとするかもしれない。

お酒やタバコ、パチンコ、異性との関係や、食べ物。


しかし、その先は悲しい結果が待っている。

そのことは、うすうす気づいている。でも、そこに避けるほかがない。




だけど、聖書にはこう書いてある。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
へブル12:7

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
Ⅰコリント10:13


ここに本当に重要な真理が隠されている。

はっきり書かれてある。



神様が、僕らに試練を与えてくださっていること。

さらに、それは僕らを愛しているから。

僕らがその苦労や痛みを通して、本当に大切なものに気づくことができるように、神様は願い、祈り、期待しておられる。

そして、ただ試練を与えるだけでなく、その試練を乗り越えることができるように、必ず助けの手を差し伸べてくださる。

これは、ほんとのほんとのこと。

この3週間、循環器内科で結構辛かったぁ。

でも、神様は本当にピンチの時にはいつも、上司のドクターや看護しさんなど、助けの手を差し伸べてくださった。







だいぶ遠回りしたけど、今夜のテーマ、「働くということ。」に戻りたい。


いや、ここまで書いたけど、働くということに限らず、生きるということには。


必ず、苦労や痛みは伴う。


それは、避けられない。


いや、むしろ僕らに本当に必要なもの。



大切なことは、その試練を、神様にあって乗り越えること。


逃げてはいけない。


逃げては、本当の幸せを知ることができない。


逃げては、イエス様の似姿には変えられない。


そう思う。




今夜は当直!

今夜も、イエス様とともに。

ここ最近のこと

昨夜は当直で。

今日は午前中仕事してからの、午後は自宅で爆睡。

そんなこんなで眠れぬ夜。

ブログを更新しています。


実は、何度かブログを書こうとしてみたんですが、実際書いてみるとうまく言葉にならなかった。

それは、あまりに自分の周りにいろんなことがありすぎてるからで。

なおかつ自分がそれらを消化できていないから。


前にも「キャパ」ってタイトルで記事を書いたことがあるけど、人には必ずキャパがある。

限界がない人間なんていない。

無限なのは神様だけ。



その限られたキャパに、何をどれくらい入れるかが大切なんだと思う。


したっけ、今俺のキャパの中で「仕事」ってやつは果たしてどれくらい占めているんだろう。

そしてどれくらい占めるべきなんだろう。


俺は淀川キリスト教病院という場所を、神様に与えていただいたことをとっても感謝してる。

尊敬する先輩ドクターがたくさんいて。

本当にいい同期に恵まれた。

研修も初期研修医として、充実した経験や勉強をさせてもらってる。


でも、この仕事だけで俺のキャパのほとんどを占めさせるのは違う気がする。

なんとなく。



それは言い訳とかではなくて。

仕事だけで埋め尽くしたら、多分俺は本当に愛のない、あったかい心のない人間になってしまいそうで。



友達とか、いつかはお嫁さんとか。いつかは子供とか。

人を真心から大切にすることを。

結果や功績よりも、今そこにある人間と人間のかかわりを大切にすることを忘れたくないな。



人間らしく生きたいな。



あと、最近考えてるのはやっぱり三年後の進路のこと。

働き始めたばかりなのに、またすぐ次の職場のことを考えなきゃいけない。

でもそれはしょうがない。

淀川キリスト教病院に残るのか、違う病院に行くのか。

大阪なのか、北海道に帰るのか。

神様は俺に何と言っておられるのだろうと考えている。



ただ、自分の中に平安があるのは、自分が重症心身しょうがい児者の方々と生きることに召されてるってこと。

具体的にどんなふうにかかわるのかは分からないけれど。

神様は自分の人生の節目節目に、重心の方々との出会いを与えてくださった。



彼らと生きることは、イエス様と生きること。

彼らの近くには、いつもイエス様が働いて下さってる。

そのことを感じてる。



さて、自分の生涯はどうなることやら。

まったく先も見えない。

神様を信じることは、忍耐力が試される。

イエス様にあって、ふんばるぞ。



読んでくださった皆さんにイエス様の祝福がありますように。


おやすみなさい。

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