Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

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罪人のかしら

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。Ⅰテモテ1:15


こんばんは。


僕はすぐに、スタートラインを忘れてしまいます。
「罪人のかしら」というスタートライン。

決して忘れてはならないのに。
決してそこから離れてはならないのに。


最近になってこのblogを読み始めてくださった方の中には、僕のことをただ純粋に「熱いクリスチャン」だと思ってくださっている方がいらっしゃかもしれません。

でも・・・そうではないんです。。

僕には、暗く、罪深い過去があるんです。
僕の罪は重いんです。


それは、過去の僕が「唯一絶対なる神さまを知りながら」罪を重ねていたからです。
生粋のクリスチャンホームに生まれ育ち、溢れるばかりの愛情を受け、幼いころから偉大な神さまと御子イエスさまを知りながら、僕は罪を犯し続けました。


大学1年生のとき、ある先輩にこう言われました。

「お前、クリスチャンだろ?
 クリスチャン・・・そんなんでいいの?」



その時は、「こんなんでもいいんすよ!」って笑い飛ばしていたけれど、今思えば僕はとっても重い罪を犯していたんだって気付きます。

それは、「神さまの御名を下げる」という罪。
偉大な偉大な神さまの御名が、下げられ、「所詮キリスト教ってそんなもんかよ。」そう思ってしまわせることほど、重い罪はないと思います。
僕はそんな罪を犯し続けました。。


僕こそ、「見捨てられて良い存在」でした。


でも・・・違ったんです。
神さまは、こんな僕をも見捨てず、諦めず、イエスさまの御名によって我が子として受け入れてくださいました。


僕は、こんな最も最も低い、「罪人のかしら」というところから救われました。
ここが僕のクリスチャンライフの原点であり、スタートラインです。


それなのに、最近の僕はときどき本当に傲慢な態度を取ってしまいます。
まるで自分自身が神さまと歩む道を選んでいるかのようにふるまってしうまうんです。

そんなの違う。私を愛し、赦してくださった神さまに対して、これほどの無礼はありません。
もう一度、僕は「罪人のかしら」という真の原点に立ち返ります。


神さまが、僕を諦めず、見捨てず、愛してくださったから、今僕は生きることができます。
だからこそ、今僕はその神さまの栄光のために、全てをささげるんです。走り続けるんです。



私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Ⅰヨハネ4:10

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