Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

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こんばんは。

金曜から土曜にかけて、年に一度の旭医聖研合宿がありました。
そして今日は、週に一度の大切な主日礼拝がありました。

ここ数日を通して、神さまは多くのことを私に語ってくださいました。

今夜は、そのことを静かに思い巡らしていました。

その中で、私は「どれほど自分中心に生きているのだろうか?」と考えさせられていました。

クリスチャンは、神さまのことを「主(しゅ)」と呼びます。
訓読みすれば、「あるじ」。

文字通り、神さまは、私たちの人生の全ての主権・選択権をもつお方、導き手であられると信じているのです。
祈りの中でも、私は神さまを「主よ」と呼び、その御声を求めます。


一方で、私の普段の生活において、どれほどこの言葉の通り、神さまを「主」として招き入れているでしょうか。

いいえ、私は招き入れていません。
私の心に、「主」として立っているのは、紛れも無く自分自身です。

私の理性は、物事を自分に都合のよいように理解するために用いられ。
私の感情は、ときに自分を喜ばせるために、ときに人をさばくために用いられ。
私の意志は、私の理性と感情が納得する方向に用いられ。

私の心のどこに、神さまが「主」としておられるのか。


私はもう、言葉だけの、上辺だけの、そして一時的な「主よ」という呼びかけはしたくない。

神さまが、「主」として私の人生を導かれるとき、必ずしも、私の理性、感情、意志は、それに同意しないかもしれない。
けれども、私は神さまを「主」として招き入れたい。
神さまの尊い言葉である、聖書のみことばを、これまで蓄えてきたどんな知恵、経験よりも大切にし、従いたい。

そう思います。

それは、神さまが、私をこれまで本当に愛してくださり、あわれんでくださり、全ての最善をなしてくださったから。
イエスさまという一人子を十字架にかけてまで、罪人であり見捨てられるべき私を、引き寄せてくださったから。



主よ。
あなたこそ、私の王、私の神です。
あなたが、私の人生の全ての主権・選択権を持っておられます。
たとえ私に理解ができなかったとしても、たとえ私の感情が逆らおうとも、私はあなたに、あなたの言葉に従います。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

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