Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

こんばんは。

今夜もこのブログを通して、皆さんと聖書のことばを思うことができて幸せです。

私の小さなことばが、届くべき人に届き、神様のご計画がなされますように。



今晩のタイトルは、ちょっと驚くような単語かもしれません。

「裸」

私たちが日常生活で頻繁に使うことばではありません。

ただ、聖書には意外にもこのことばが出てきます。


「人(アダム)とその妻(エバ)は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」
創世記2章25節

皆さんご存知の、アダムとエバの話です。
彼らが、ヘビ(悪魔)に騙されるまでは、裸であったことを知っていらっしゃる方もいるかもしれません。


また、ヨブ記にはこんなことばがあります。

「私は裸で母の胎から出てきた。
 また、裸で私はかしこに帰ろう。」
 ヨブ記1章21節

意味はそのまま。
私たちは、母親の子宮から出てくる時、裸でした。
服も着ず、お金も持たず。

完全に裸でした。


そして、私たちが死ぬ時もまた、裸になります。
この地上でどれほど蓄えようと、それらは一つとして次の世界に持っていくことはできないのです。



どちらも、とても興味深いことばだと思います。


私は、聖書の中で言われている「裸」とは、必ずしも「肉体」のことだけを言っているのではないと思うのです。



私たちは、裸で生まれて。

その後、一枚一枚服をまとっていくように。


心においてもまた、いろんなものをまとっていくのではないでしょうか。

もちろん、愛情や友情、勇気などたくさんの良いものもまとうでしょう。


一方で、私たちは良くないものをまとっていくことも知っています。


敵意、妬み、プライド、ウソ。


実際に、小さいころはシンプルだった人間関係も、年を重ねるほどにどんどん複雑になっていきます。

まるで糸がからまってほどけなくなっていくようです。



ただ、私はイエス様に出会い、聖書を読み、イエス様のいのち、人生、生活に触れていく中で、自分自身の心にまとっていたものが一枚一枚脱がされている感覚を覚えるのです。


糸が一つずつ、一つずつ、ほぐれていくのを感じます。




大学時代の話になりますが、私は北海道KGK(キリスト者学生会)に所属していました。

その時に、北海道の担当主事となられたのが、O主事でした。


初めて会った日、一緒に青年の家のお風呂に入り、隣に座って話す中で、私は衝撃を受けました。


「この人…本当に全裸だ…」

いや、身体も本当に全裸だったんですけど。

私が言いたいのは、身体だけでなく、心も全裸だったということに気付いたのです。


Oさんは、本当に隠していませんでした。



正直、人ってみんなあるじゃないですか。

見られたくないもの、触れて欲しくないもの。



隠している過去。

誰にも言えていない失敗。

触れられたくない心の傷。



でも、Oさんは、心が全裸で、何も隠していませんでした。

これは、私にとって衝撃的な事件でした。


正直なところ、これはクリスチャンであっても向き合う問題なんです。

いやむしろ、クリスチャンだからこそ、あまり質問されたくないこと、触れられたくないことがあるものです。

でも、あの時Oさんに出会って、


「俺も裸になりたい!!」
(変な意味じゃないですよ。)

と心から思ったんです。



それでは、どうやったら裸になれるのか。

繰り返しになりますが、それはすべてイエス様がしてくださるんです。


私の心に触れ、周りの人たちに触れ、一つずつ、一つずつ、神様は私が隠していたものは明るみに出し、傷ついていたものを癒して下さいました。



最初の聖書のことばをもう一度記します。

「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」
創世記2章25節



神様との関係が守られていた頃のアダムとエバは、ふたりとも裸であっても、互いに恥ずかしいと思いませんでした。


互いの違いを、素晴らしいものとして、そのまま受け入れることができました。

自分自身の弱さも、相手に頼るための良いものだと受け取り、満足することができました。



イエス様にあって、父なる神様に立ち返っていくとき、私たちは罪を知る前のアダムとエバのように、本当の意味で裸になっていくことができるのではないでしょうか。



今日はここまで。

おやすみなさい!

スポンサーサイト
該当の記事は見つかりませんでした。