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律法と良心


最初に書いておきますが、この日記はかなりマニアックです。
論理的に考えたりすることが苦手な方、
そもそも考えることが苦手な方は読まないほうが良いかもしれません。

この日記が、主に喜ばれる者となりますように。








今、私の霊が強く真理を欲していることを覚えます。


私は、真理を求めるとき、
2つの神の啓示にのみ頼ることを決めています。

2つの神の啓示とは、「聖書」と「自然」です。


聖書は神が書かれた書物です。
聖書に書かれる文字、文脈全てに一寸の誤りはありません。

同時に、自然も神が書かれた「書物」です。
神が作られた自然に目を留めるとき、
そこには神の偉大さが溢れると同時に、真理です。


私が今日神に示されたことは、「律法と良心」についてです。


私はここ最近、ずっと「心とは何か?」というテーマについて思い巡らしています。

心は別に、クリスチャンだけが与えられているものではありません。
人類が皆与えられているものです。

同時に、目に見えないものです。


この心を捉えようと、長い歴史の中で多くの科学者が研究してきました。

それが、「心理学」や「精神医学」です。


しかし、まだまだ分かっていないことだらけです。



さて、本題に入ります。

聖書を読む中で、私はある箇所に目が留まりました。

「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」
                 ローマ2:14,15


ここで、注目すべきことは2つです。


1つは、「律法が示す行いは人間の心に元来書かれていること」

これはすごいことだと思いませんか?


「その方(真理の御霊)が来ると、
 罪について、義について、さばきについて、
 世に誤りを認めさせます。」
              ヨハネ16:8


「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」
                    ローマ7:7


この二つのみことばから分かるように、
クリスチャンとして歩み始めると、新しい自分(霊)が与えられ、
御霊の働きによって罪を知るようになります。

そして、自分の罪を知るために、律法はあります。


しかし、ローマ2:14,15には驚くべきことが書かれてあります。
クリスチャンでなくても、「人間」にはその律法が書かれているのです。
罪を知るための、律法が備えられているのです。


でも、当然といえば、当然なのかもしれません。
人間は神による被造物です。
神が「これをしてはならない!」と命じられたもの、
言い換えれば「これをするためには作っていないこと」をするとき、
クリスチャンであろうとなかろうと、そこに一種の「罪悪感」を感じるのかもしれません。



2つ目は、「律法と良心が異なること」

これも、非常に大切な真理です!

上記の「律法」と「良心」は全く別だということです。


そういえば、「律法が咎める」とは言いませんが、
「良心が咎める」とは言います。

おそらく、律法はきっと人間の深く深くに潜在的にあるのに対し、
良心は日常的に活動し、意識しているものなのだと思います。



それでは次に、新しい疑問が湧いてきます。


「良心とはなにか?」という問です。


律法が神が人間に罪を知らせる役目がある一方で、
良心とは何なのでしょうか?
神が人間に残された良心・・・なぞは深まるばかりです。


そこで、コンコルダンスで「良心」を引いてみました。
すると良心の前につく形容詞に目が留まりました。

「きよい良心」使徒23:1
「神の前にも人の前にも責められることのない良心」使徒24:16
「正しい良心」Ⅰテモテ1:3
「礼拝する者の良心」へブル9:9


「きよい良心」があれば、「汚れた良心」があるはずです。
「神の前に責められない良心」があれば、「責められる良心」があるはずです。
「正しい良心」があれば、「間違った良心」があるはずです。
「礼拝する者(クリスチャン)の良心」があれば、「ノンクリスチャンの良心」があるはずです。

何を言いたいかお分かりだと思います。
すなわち、「良心とは人によって変容するもの」だということです。


その人の状況、個性、考え方、あらゆる因子によって、
良心が変容していることが分かります。

人間の良心は、律法と異なり真理(全くもって正しいもの)ではないということです。


これで律法と良心の違いが分かりました。

律法とは、神が定めた「正しさ」です。
一方で、良心とは神が与えた正しさへの意思である一方で、容易に変容するものです。



ここからは、私の現段階の考えですので了承ください。

私はここで考えました。
イエス・キリストを受け入れることで与えられる霊には、
肉とことなって誤りは一つもありえない。

逆に言えば、「良心」もやはり肉の一部なのだと思います。
もっと言えば、神さまは肉の人間にも正しさへ飢え乾くように良心を与えられたが、
本当の意味での「真実」でも「正しさ」でもないということです。


私は考えます。
「良心」とは、「理性によって採択される決定」だと。


人間の脳には、前頭連合野という部分があります。
そこは「理性」を司ると科学的に証明されています。

その理性が良心を決定するのだと思うのです。

実際、前頭連合野は、
視床下部からの欲求、
大脳辺縁系からの価値判断など、
あらゆる情報を統合する場所であり、
そこで最終的に決断する流れを「理性が働く」といいます。




・・・・・・


気づけばかなりマニアックになりましたね。笑


最終的に伝えたいことを箇条書きにしておきたいと思います。



 ①律法は人間に潜在的に存在するものである。
 ②律法と良心は異なる。
  律法は神が与えてくださった、絶対的に正しい「真理」であるのに対し、
  良心はあらゆる因子の中で変容するものである。
(③良心は肉の中にあるものであり、脳科学的に言うならば、理性に近いと考えられる。)





主よ、あなたの御名をほめたたえます。

この日記を通して、あなたの栄光がほめたたえられますように!!

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