Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

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受動的姿勢

こんにちは(^^


いよいよ大学が始まりました。
4年生の教室は狭く、暑く、座りづらく。。
かなりQOLが低い中で朝から夕方まで拘束されるので辛いです。


ただ、今日はお昼に少し抜け出して、旭川に来た母に会うことができました。
二人でランチバイキングを食べながら、いろいろな話ができて感謝でした。

母と別れるとき、なぜか涙ぐんでいる自分がいました。
特に、永遠の別れでもないのに、母への大きな感謝と寂しさがこみ上げました。


母と別れてから、母が昨日今日とかけてくれた言葉を振り返っていました。

試験のこと、考えすぎるんじゃない。
みっちは、今まで優等生でやってきたからね。
周りの人がどれぐらい進んでいようが、自分がどれだけ進んでいまいが、比較したって何も良いことないんだよ。
考えない!考えない!ってすればするほど、試験のこと考えちゃう。
ただ、イエスさまのことを思い続けなさい。
不安も、劣等感も、焦燥感も何もかも、イエスさまにゆだねなさい。



頭の中で、母の言葉一つひとつを繰り返し、繰り返しめぐらせて、同時に、みことばを繰り返し、繰り返し読み続けました。

そして、なんとしてでも、母が教えてくれた「秘訣」を体得しようと必死になっていました。


しかし、そんな自分に違和感を覚えました。

俺は、何をしてるんだろう。



またも、僕の悪い癖が出ていることに気付きました。
そう。僕の悪い癖の一つは、何事も自我を心の中心に据えてしまうことなのです。
まるで、ビジネス本や心理学の本から、日常に使えそうな「秘訣」を見つけて自分の生活の取り込むかのように、みことばや母から教え受けた教訓をも、1つの「秘訣」として能動的に自我に体得させようとするのです。

これは、傲慢以外のなにものでもありません。


こんな風に書きながら、僕はこの夏休み前までは、日常的にこの方法をとっていました。
イエスさまによる救い、聖書からの助け、励まし、知恵、いずれにおいても、自分という人間の中心に据えた「自我」に引き寄せようとしていました。


けれども、KGKの夏期学校で教えられました。

クリスチャンの土台は、決して「能動的姿勢」からはできません。
主の前にひざまずき、徹底的にへりくだる中での、「受動的姿勢」においてのみ、主の偉大な御業を知ります。
言い換えるなら、救い、助け、励まし、知恵、どれをとっても、自我の中で煮たり、焼いたり、消化したりして生まれでるものではないということです。

僕という一人の人間の外で、主はすでに救いを成就してくださっており、僕という一人の人間の外で、主は常に助けと励ましと知恵の手を差し伸べてくださっています。

後は、僕がそれを信じて受け入れるかどうかだということです。
そして、主の偉大な御業を信じ、受け入れ続けることが、信仰の土台を強固にし、信仰の根を深みまで成長させてくださいます。

そのような、「受動的姿勢」が土台・根として据えられた上で初めて、努力・行いといった「能動的姿勢」が生まれでます。

僕は、そんな大切な大切なことを、KGK夏期学校を通して教えられました。


話が大分膨らんでしまいましたが、僕はそんな「受動的姿勢」がなかなか取れません。ついつい、心の真ん中に自我を据え置き、主の偉大さを小さくしてしまいます。

それでも、この事実に気付いた今、僕は主の前で徹底的に砕かれ、へりくだる者と変えられ、ただ主によって強固な土台がつくり上げられることを望みます。


「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10:17

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