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いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

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寂しがり屋

こんばんは(^^!


パソコンに向かいながら思いますが、文章を書くって・・・何かを生み出すって本当に労力がいることなんですよね。

もちろん、悩まずスラスラと書ける時もありますが、大抵はそうではなくて、途中でなんて書いたらいいか分からなくなって・・・パソコン閉じて・・・祈って、また書いてって感じ。

それでも結局書き終わらないこともざらです^^;

これは昔から今もずっと変わらないですねー


一方で、このblogを始めた時から変わってきたものもあります。

その一つは動機です。

僕は当初、いやしばらくの間、突き詰めると「自分」のために書いていたように思います。
自分の「思い」や「願い」が大きくて強くて、それを何らかの形で表現したい!という思いが先行していた気がするんです。


でも、最近はパソコンを開くたびに純粋に思えるんです。

「このblogを読んでくれている方のために、書きたい。
 イエスさまが僕を愛してくださったように、僕も人を『愛する』ために書きたい。」って。

これは僕にとっては大きな大きな進歩でした。
そんなこと言っておいて、きっとこれからも自分の思いが先行してしまう時もあるかもしれませんが(笑)・・・これからも遊びに来ていただけると、うれしいですw



前置きが長くなってしまいましたが、今日のblogは「寂しがり屋」というタイトルをつけました。


正直な話、僕は本当に「寂しがり屋」です。笑

理由はいくつかあると思うんですが、7人兄弟に生まれたっていうのはかなり大きいと思います(^^;


小さいころから僕は「寂しがり屋」と「泣き虫」で有名でした。。


幼稚園に入って、初めて一人で過ごす時間があまりにも辛くて、泣いて泣いて、当時年長さんだったお姉ちゃんの教室に無理やり入れてもらいました・・・笑

それは家に帰っても同じで、僕は長らく一人で寝ることができず、父と母と姉に囲まれて寝ていました。

あるとき、そんな僕を見かねて、札幌に住んでいる伯母のところに姉と一緒に行かされたのですが・・・案の定夜中泣いて泣いて・・・とうとう深夜にも関わらず両親が北見を出発しました。笑
(北見⇒札幌は車で6時間ですね・・・)

そんなこんなで僕は相当な「寂しがり屋」だということはお分かりいただけたと思いますが・・・幸いにも僕には近所に同い年の親友ができました。
彼は相当やんちゃなやつでしたが、なんだかんだいつも僕の側にいて守ってくれました。

小学校に入ってからも、彼はいつも僕の横にいてくれました。

3年生になると、さらに近所にもう一人の親友ができました。
彼はとてもシャイでしたが、打ち解けるのに時間はかかりませんでした。

今思えば本当に感謝なことですが、僕は彼らと中学校3年まで、毎日一緒に通学しました。
さらには3人で同じサッカー部に入り、兄弟のように毎日を過ごしました。
何百回と笑いました。そして何百回とケンカしました。笑
でも3人でいた時間には、どんなときも「寂しさ」はありませんでした。


そしていよいよ高校に進学することになりました。
そして不思議にも、3人とも同じ高校に入学しました。

でも、3人はそれぞれ違う部活に入り、今までのようには過ごせなくなりました。


そしていよいよ僕の心には、あの「寂しさ」が押し寄せてきました。

でも、当時の僕はいきがっていたので、
「高校生にもなって寂しさなんて感じるわけない。
 俺は孤独なんて・・・何も恐くない。」て言い聞かせました。

そうやって、むしろ人に対して壁を作るようになりました。
「俺によって来るやつには接するけど、俺からは近づかない。かっこ悪いから。」


プライドだけがどんどん大きくなっていきました。


そうこうしてる内に、僕は今の大学に入学しました。
僕にとって3年間の「プライドがちがち固め」が相当響いたのか・・・気づけば僕は友達になる方法が分からなくなっていました(^^;


論理的に考えてみるんです。
「この人は今こう思ってるだろうから、こういう風に話しかけたら俺と友達になってくれるかな?」

でも強張った顔して、ぺこぺこしながらも、僕自身が周りに打ち解けることができなくて、心から気が許せる人ができませんでした。

そんな時でした。
僕がイエスさまの愛を心から知ったのは。
(2010年3月11日のことです)

僕はクリスチャンホーム育ちで小さいころから聖書の話は聞かされていましたが、その日まで、本当にその日まで、
「イエス・キリストに愛されている。」
ってことの意味がぜんぜん分かりませんでした。

イエス・キリストが僕のために十字架にかかられたって言われても、ぜんぜん意味が分からなかったし、そもそもなんで十字架にかかることで俺の罪は赦されるんだって思ってました。

そんな僕だったけど・・・その日を境に、自分はめっちゃ汚いやつで、一人じゃ生きれないやつで、どうしようもないやつだって心から認めた日を境に、僕はイエスさまの愛が分かりました。
そして、知った途端に涙が止まりませんでした。
その愛の大きさ、深さ、その愛を示すためにイエスさまがどれだけ辛く苦しい思いをされたんだろって考えたら、涙がどんどん溢れてきました。


聖書の言葉です。

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼のうち傷によって、私たちはいやされた。

イザヤ53:2-6


本当にこのみことばの通りでした。
とげだらけの冠をかぶせられて、血だらけになるまでムチを打たれて、手足に釘を刺されたその姿は、決して「神の子」には見えない姿でした。
けれども、僕の心の汚さをぬぐうためには、ここまでに痛めつけられ、苦しまれる必要がありました。
そして、イエスさまが刺し通されたことによって「罪の赦し」という奇跡が起きました。
イエスさまが砕かれたことによって、「心の癒し」という奇跡が起きました。


こうして、
「僕のために命を捨てられた方がいたんだ。
 そしてそれが、イエス・キリストなんだ。」
って心から分かったとき、自然と僕の心にはもう「寂しさ」は消えていました。

いろんなもので埋めていたけど完全に埋まらなかった「寂しさ」「孤独感」は、イエスさまの愛で初めて、完全に埋まりました。
それは、そのときから今まで、ずっと。。


実際、いまだに大学で寂しさや孤独感を感じることはあります。
でも、そのたびに思い出すんです。
僕のために、僕を愛するがゆえに十字架にかかられたイエスさまがいるんだ!って。
そしたら、「俺は一人じゃないんだー!!」って思い出すんです(^^


そのイエスさまは、僕だけではなく、皆さんのためにも十字架にかかられました。

そしてよみがえられたイエスさまは、いつも皆さんの心の扉をたたいておられます。

僕らがすべきことはただ一つ。

その扉を開けることです。



佐々木満ちる

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-2 Comments

Shinko Kondo says..."主は共におられる"
みちる君、素晴らしい証を感謝します。ほっともっとに行けなくても、(笑)主がおいしい料理を提供して下さいますね。みことばのマナ。
本当に満たされました。これからも読んでいきます。
2012.01.18 16:27 | URL | #- [edit]
佐々木満ちる says..."Re: 主は共におられる"
Shinkoさん
こんばんは(^^!
コメントのお返しが遅れてしまい、ごめんなさい(>_<)
これからも、みことばのマナを食べ、主と共に日々を過ごしたいと思います!
Shinkoさんのblogにも、遊びに行かせていただきますね★
2012.01.26 19:38 | URL | #- [edit]

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