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いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

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「愛する」ということ。

こんにちは(^^)


今日もこうしてブログを通して皆さんとつながれることを、心から嬉しく思います。


昨日はクリスチャンの親友のKと長電話。
今朝は婚約者のMと長電話。

信頼している二人だし、ありのままで向き合える二人。

だから、本当に幸せな時間でした。

「愛されているんだな」って感じました。



僕は、「愛する」とは何か、イエス様に出会ってから、ずっと考えてきました。

聖書のことばを思いめぐらし、自分の生活の中で探し続けてきました。

シンプルに言えば、「神は愛なり。」ということばの通り、神様ご自身なんですけど、それを言ってしまうと話は進まないので、今の僕が思う「愛する」ということについて、書きたいと思います。


僕は、「愛する」って、「その人に幸せになって欲しいと心から思い、そしてそのように行動すること。」なのかなって思っているんです。


ただ、よくよく考えると、人それぞれ「幸せ」の感じ方って違うんですよね。

僕は、ここがとても大切なポイントだと思っているんです。

「愛する」ということは、「これが幸せなんだぞ!!これを受け取れ!!」ということじゃないってこと。

その人自身を大切にし、その人の「幸せ」を自分も一緒に求めるということ。寄り添うということ。



昨日、淀川キリスト教病院の研修医同期の14人のうち、二人とお別れだったんです。

その二人に、手紙を書きながらまさに思ったのはこのことでした。

「二人が遠くに行ってしまって、離れ離れになったとしても、本当に幸せになって欲しい。笑顔になって欲しい。」と心から思いました。


もちろん、クリスチャンの僕にとって、何にも代えられない「幸せ」はイエス様に出会い、信じて救われることです。
そして、同じようにこの「幸せ」を受け取って欲しいと、いつも心から思っています。


でも、だからといって、相手のことを全く考えずに、

「イエス様のことを信じて!!イエス様が救い主で、イエス様を信じることが『幸せ』なんだから!!」

と力づくで押さえつけようとするなら、僕はそこには「愛」がないと思うんです。

僕の口から出る言葉が、いくら「正しい」ものだとしても、その人自身の個性や考え方、感情を無視して、無理やりに「幸せ」を押し付けるところに、「愛」はないのではないでしょうか。


「愛がなければ、全てはむなしい。」

聖書のこのことばが、僕の心にいつもあります。



最初の話に戻りますが、昨日と今日と電話した二人は、僕の心を決して力づくで押さえつけようとしません。

ただ、僕の幸せを願い、寄り添ってくれる。

その中で、僕は自然と自由になって、心がイエス様に向かっていきます。そして、本当にこの世界にはない穏やかな心が与えられるんです。救いがある。



今日はあまり長く書くつもりはありませんが、イエス様の十字架も、やはり「愛」なんですよね。

人によっては、あの十字架がなぜ「愛」なのか、さっぱり分からない方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、もし仮にあなたが、

「あなたが自分のいのちを犠牲するなら、あなたを通してたくさんの人たちが救われて、心が清められ、天国に行くことができる。永遠のいのちという、最高の幸せを受け取ることができる。」

と伝えられたとしたら、あなたはどうしますか。



イエス様という人は、私たちを愛するがゆえに。

この世界では絶対に手に入れることができない、「永遠のいのち」という真実の幸せを与えるために、ご自身のいのちを犠牲にされました。


それは、愛です。



僕も、周りの人たち、病院のスタッフの方々、患者さん、おひとりおひとりを愛したいと心から願っています。

今読んで下さっているあなたも、そのお一人です。あなたに、本当に幸せになって欲しいと心から願っています。

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