Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

つみ

イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。
民衆はみな、みもとに寄って来た。
イエスはすわって、彼らに教え始められた。

すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

彼らはイエスをためしてこう言ったのである。
それは、イエスを告発する理由を得るためであった。

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起して言われた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。
女はそのままそこにいた。

ヨハネの福音書8章1~10節




こんばんは、今日もブログを更新できること、神さまに感謝します。

上の箇所は、聖書に出てくるワンシーンです。

僕は、今日ある映画を観ました。
あまりにセンセーショナルで、すさまじくて、一生脳裏にやきつくような映画でした。

その映画を観て、「罪」というものについて考えさせられました。

正直、「罪」っていうと、良いイメージはありませんよね。
なんだか、重く、暗いような感じ。

だけど、僕ら一人ひとりが真剣に向き合わなければならないことだと思います。


「罪」と聞くと、やっぱり最初は「犯罪」の「罪」。
盗みとか、殺人とか。
法律で裁かれ、処罰される。
そのような、行動として表に出てくる罪です。

一方で、聖書では、もう一つの「罪」が語られています。
それは、「原罪」というものです。
僕は、神学を学んだわけでもないし、難しいことは分かりません。
だけど、自分の体験として、自分の心を思う時に、確かに「原罪」というものは存在してるのだと分かります。

無意識のうちに、僕の心から湧き上がる暗くて、悪い思い。
人をねたむ気持ち。
人と争う気持ち。
人をいやしめようとする気持ち。

そんな悪い思いが、僕の心の奥底にあって、ふとしたときに湧き上がってくるんです。
悲しいけど、それが僕の心です。


最初に書いた、聖書の箇所に戻ります。
律法学者という、聖書の教えを忠実に守っていた人達は、イエスさまの粗をなんとか捜そうと、やっきになって一人の女性を連れてきました。

その女性は、「姦淫」という当時のユダヤ社会では、即刻死刑に値する罪を犯していました。

彼女をイエスさまの前に突き出し、彼らは口をそろえて言いました。
「あなたは、この人をどうしますか?」

確かに、彼女は犯してはいけない罪を犯しました。
しかし、彼らの行動もまた、ねたみ、卑しさという、心の奥底にある「原罪」によるものでした。

でも、彼らはそのことに一切気付いていませんでした。
そして、イエスさまのもとに詰め寄るのです。


それは他人ごとではなくて、僕自身ついても言えることです。

先日、クリスチャンの友達にこう言われました。
「満ちるは、●●っていうプライドあって、それが全面に出てたよな。あれは、他の人達にとってつまづきになってたと思うよ。」

正直、グサッときました。
無意識のうちにある、僕の心の罪から、悪い言葉、悪い行いが出ていたんだって気付かされました。



自分の心の中にある罪に気付いていなかった、律法学者たち。
そんな彼らに対して、イエスさまは言われました。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そのたった一言が、律法学者一人ひとりの心に、静かに、そして確かに響きました。

そして、聖書にはこう書いてあります。
「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き・・・」

年を重ねた人から、一人、またひとり、イエスさまの言われたことの真意が心に響きました。
そして、自分自身の心の奥底にも、彼女をさばく事などできないほどの深い罪があることに気付かされました。



僕自身、毎日、本当に毎日、時を経るごとに、自分の心の汚さ、罪の根深さを感じています。
どうして、どうしてこんなにも僕の心は汚いんだろう…心からそう思います。


だけど、その汚れ、根深い罪を、完全に洗い清めてくださるお方を、僕は知っています。

イエス・キリストです。

イエス・キリストは、ただお一人、この地上で一つの罪も犯されませんでした。
ここでいう罪は、「犯罪」の罪に留まらず、「原罪」にも及ぶものです。
イエスさまがこの地上で抱かれた思い、言葉、行動全てが、父なる神さまの御心にかなう、きよく、美しいものでした。

そのイエスさまが、十字架にかかられました。
一切の罪を犯されなかったイエスさまが、この地上で最も苦しいと言われている「十字架刑」に処されたのです。
イエスさまを十字架にかけたのも、やはり人々の罪でした。

しかし、イエスさまは彼らに抵抗せず、十字架に自ら架かられたのです。

なぜか。
それは、罪も汚れもないイエスさまが、十字架にかかり、死ぬことが、僕ら全ての人達の罪をゆるすための唯一の道だったからです。

イエスさまは、ご自分が流された血潮だけが、僕らの「原罪」を完全に洗い清めることができることを、知っておられたのです。
だからこそ、イエスさまはご自分の使命を最後まで全うされ、3日の後によみがえられました。

ここに、イエスさまの大きな愛があります。


僕自身、イエスさまの流された血潮による、罪のゆるしを受け取ったものですが、だからといって今の僕はイエスさまのように完全にきよい人として全ての時間を生きているか言われると、そうではありません。
この地上にいる限り、僕は「原罪」という鎖につながれ続けたものなのです。

しかし、僕が何度失敗しても、罪を犯しても、イエスさまは僕をあきらめず、何度でも洗い清めてくださいます。

イエスさまの愛は、本当に大きくて、素晴らしいです。。


その愛が、今、あなたにも注がれています。
イエスさまは、あなたが、その心の奥底にある罪から解放され、全く新しい、自由と喜びに満ち溢れた人生を歩むことを、願っておられます。
そして、僕も、あなたが救われることを、心から願っています。


今日のブログは、最初に書いた聖書のワンシーンの続きを書いて、終わりにします。


イエスは身を起こして、その女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

彼女は言った。
「だれもいません。」

そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」
ヨハネの福音書8章10~11節

Don't waste your LIFE

こんばんは♪

今日も、このようにしてブログを更新できること、神さまに感謝します。
このブログを通して、ただただ神さまの栄光が表わされますように。

今日から、大学がスタート。今週は皮膚科!
先生方皆さんがとっても優しく教えてくれて、勉強の意欲も湧いてきました♪感謝!

昨夜の話ですが、実習のスタートを前に、冬休み最後の映画を観ました。
ずっと母さんが薦めてくれてた映画で、「グレート・ディベーター」というものです。

なんでも、デンゼル・ワシントン本人が監督兼主演もしてしまうほどに、その脚本に惚れ込だとか。


いやぁー。。
母さんが何度も観なさいっていった理由が分かりました。


この映画の舞台は、1930年代のアメリカ・テキサス州。
当時は、黒人差別の風潮が、まだまだ色濃くありました。
そんな中で、デンゼル・ワシントン演じる黒人大学の教師が、ディベートチームを作ります。
チームに選ばれた四人は、それぞれ生まれた背景も、性格も全く違った人達。
だけど、先生に導かれつつ、また色んな経験を通して、徐々に力をつけていきます。

そんな最中、あまりにショッキングな事件に彼らは巻き込まれていまいます。
ある者は泣き崩れ、ある者は現実を逃避し、まとまりかけていたチームはまたもバラバラになってしまうのです。

しかし、彼らは再度立ち上がります。
諦めず、自分たちが持っている「言葉」という力、武器、そして鏡を通して、自由と尊厳を求めて語るのです。
特に、最後の、ハーバード大学との対決のシーンは圧巻でした。


この映画を見終えたその時、僕の心にふつふつと湧き上がったもの。
それは、「神さまは、俺にどんな計画をもっておられるのだろう…」という思いでした。

戦争もなく、差別もなく、自由な国、日本に育った中で、今まで当たり前だと思っていたものが、実は当たり前ではないのだと日々知らされています。
そしてその事実を知るほどに、だからこそ、神さまが僕にすべきこと、語るべき言葉を与えてくださっているはずだと確信しているのです。

あるとき、KGKの大嶋主事にこう言われました。
"Don't waste your life"
「あなたの命、人生、生活を無駄にしてはいけない」

ずーんと心に響きました。


「神さまが僕に与えてくださった計画は何だろう?」
そのことについて思い巡らす時、僕は決まってあるみことばを思い出します。

「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(イエス・キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
エペソ1章3-5節

このみことばを読む度に、励まされ、そしてワクワクするんです。
だって、すごくないですか?
この世界ができる前から、神さまはイエスさまにあって僕を、あなたを選んでくださっていたんです。
そして、この時代、この場所に使わしてくださったんです。

神さまは、全ての人に、素晴らしい計画を持っておられます。
それは、他の人にはできなくて、あなたにしかできないことです。
その計画を知っているのは、神さまだけ。
そして、その計画を僕らが知るには、イエスさまにあってだけ。
尊い十字架によってなされた、イエスさまの救い。その救いによって与えられた、神さまへの一本道。その道を通してでしか、僕らは僕らがなすべきことは分かりません。

あなたにも、そして僕にも、その命で、その人生の中で、その生活の中で、やるべきことがあり、語るべき言葉があり、そして出会うべき人がいるのです。


ふぅーーー・・・


神さま、ここまで書かせてくださって感謝します。
一人でも多くの人が、イエスさまという素晴らしいお方と出会うことができますように。
イエスさまにある、本当に本当に幸せと自由で満たされた人生を歩むことができますように。

熱く、強く

おはようございまーす!
そして、メリー×2クリスマース♪

今朝もこうしてブログを更新できて感謝。
神さま、新しい朝、素敵な人達、僕にたくさんの素晴らしいものを与えてくださって感謝します!

金曜日に実習を終えて、夜には七人兄弟の一番上のお姉ちゃんと一番下の弟が来ました!
今旭川にいるのが、三番目の僕と、五番目の妹だから、なんと、今回集結したのは1&3&5&7の奇数メンバー。だから何かって言われると、何もない。笑

そして、週末は妹と弟とカラオケ行ったり、ご飯食べにいったり、とっても楽しい時間を過ごせました(^^)/

さらには昨夜は、四人でうちのパパ&ママ&他の兄弟が絶賛していた、レ・ミゼラブルを観に行きました。
この映画は、もともとミュージカルとして上演されていたものなので、映画でもほとんど全てのセリフが音楽に乗せられていました。
観おわって、いろんなこと考えさせられました。

なんだか、ここで一言に収めるのはもったいないなーって思うくらい、僕の心に静かに、そしてゆっくりと、何か重くて大切なものが置かれた感じ。

この映画を観る前、ちょうど僕の心には一つの葛藤があったんです。

それは、「このままでいいんだろうか?」って問い。
僕は一人のキリスト者として、男として、日本人として、いつもその現状に甘んじることなく、前を向き、熱く、強く生きることができないのだろうかって思ったんです。
なんだか、まーた漠然としてますね。笑

ただ、そんな思いが、昨日の礼拝のメッセージを通しても、そしてデボーションで読んだ聖書を通しても僕の心は強く揺さぶられました。

昨日のクリスマス礼拝のメッセージは、イエスさまの誕生を祝いに、東方の博士たちがイスラエルにやってくる時の話。
不思議なことに、イエスさまという救い主がお生まれになったことは、イスラエルの人達は全く気付いていなかったんです。
普段通り生活していたさなか、突然に東方から博士たちがやってきました。
当時の「博士」は、富も権力も名声も全てを手にした人達でした。
そんな彼らが不意に現れ、「イスラエルに救い主がお生まれになりました。」と言った時、イスラエルの王は、民はどのような反応したか。
それは、「恐れ」でした。
喜びでも、感動でもなく、彼らの心を支配したのは「恐れ」でした。
というのは、彼らは毎週礼拝し、日々祈りをささげていたにもかかわらず、本当に心から、熱く、強く、救い主の到来を信じ、待ち望み、期待していなかったからではないでしょうか。

そんな彼らに対して、博士たちは、救い主の誕生を心から喜び、一目見ることを切実に願い、田舎町ベツレヘムに下ったのでした。
そして、彼らがこの地上にお生まれになったイエス・キリストに出会った時のことを、聖書はこう書いています。

「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
マタイの福音書2章9-10節

彼らは、この上もなく喜びました。
その喜びといったら、本当に本当に大きかったことでしょう。
彼らが会うことを望みに望んだ、全ての人の救い主、イエス・キリストをその目で見たのですから。
そして彼らは、黄金、乳香、没薬をささげました。
この世のすべてのものを手にした者たちが、幼子の前にひざをかがめて、これらをささげました。


彼らの姿を通して、僕は思いました。
「俺に、これほどの思いがあるだろうか。本当に心から、熱く、そして強く、イエス・キリストを求めているだろうか?そして、救い主イエス・キリストに、全てを捨て、ひざまずいて従っていく覚悟ができているだろうか?」
そう問われました。


そして家に帰り、ベッドに横になって聖書を開くと、あるみことばが心に留まりました。
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
ルカの福音書16章13節




大分話が遠回りしましたが、レ・ミゼラブルにもどりましょう。
話の舞台は、1800年代のフランス。
僕らの想像をはるかに超える貧富の差。
明日を生きるのにも必死の人達もいれば、富と名声を手にした人達もいた。
たった一つのパンを盗んだが故に20年近く投獄され、全ての希望が絶望に代わり、全ての愛が憎しみへと変わった男。
愛する娘のために体を酷使するもその先には絶望があり、ついには身を滅ぼすに至ってしまう女。
目の前にある現実を変え、明るい未来を創りだそうと立ち上がる若者たちに待つ、無残な死。
そんな真っ暗闇の中でも、時は過ぎゆく。

けれども、彼らはそこで終わらないのです。
彼らは、そんな絶望の淵にいようとも、諦めず立ち上がります。
どんな苦しみの中でも、悲しみの淵にいようとも、顔を上げて、希望を模索するのです。
生きるのです。

彼らの姿を見て、「生きる」ことを再度問われました。
先の話にもつながりますが、神さまは中途半端な生き方は僕に求めておられません。

状況に甘んじること。
神の恵みを侮ること。
それこそ、神さまが本当に悲しまれること。

僕は、今のこの時代、この日本において、一人のキリスト者として、一人の男として、熱く、強く生きたい。

その熱さ、強さはどこに向けられているものか?
それは、まぎれもなくイエス・キリストです。
富のために?
権力のために?
名声のために?
それらは全て空しいこと。

僕がイエス・キリストに全てをささげるのは、キリストにあって熱く、強く生きたいと願うその原点、根底は、全てキリストにある愛に始まります。

その愛の深さ、高さ、大きさ、それらが計り知れぬがゆえに、あまりに素晴らしいが故に、僕はイエス・キリストただお一人を見つめ、熱く、そして強く生きていきたいと思えるのです。


今日は、クリスマスイブ。
救い主、希望の光がお生まれになった日まで、残すところあと一日。
皆さんのクリスマスが、「真実」の喜びを心から握る日でありますように。

ありのまま

こんばんは♪

さっきのブログ書いた後、妹と二人で明日から来るお姉ちゃんと弟のために買い出し!
そして、そのあとは妹と家の近くの「蔵」っていうラーメン屋へ。
塩ラーメンがとってもおいしいところ。

そして、愚痴聞いてもらって、家帰ってきて、大好きな映画観てめっちゃ元気出た(T-T)/
神さま、こんなに単純に僕を作ってくれて、ありがとうございます。

今日観たのは、
「ノッティングヒルの恋人」

一度は聞いたことあった映画だったけど、いやぁーーー最高。
今観終わったばっかだけど、めちゃくちゃ幸せな気持ちになったw

この映画は、ジュリア・ロバーツ演じるハリウッドの有名女優が、偶然が重なってロンドンの町はずれロッティングヒルでしがない本屋をやってるヒュー・グラントと恋に落ちるって話なんだけど。

なんていうか、色んな意味で素敵だった。

改めて、映画っていいなーって思ったし、考えさせられた。

ヒュー・グラント演じる本屋さんもそうなんだけど、親友や兄弟たちも、みんなちょっと変わってるし、みんなそれぞれ悩み持ってる。
めちゃくちゃ風変りなルームメイトは、多分仕事してないし、本当に変人だし。笑
親友は、昔ヒューがお付き合いしていた人と結婚していて、二人は子どもができなくて、奥さんは障がいがあるけど二人はとっても幸せで。
妹も、これまた風変りで、何度も男の子のことで失敗して。
他にも、建築家からレストランのオーナーに代わったけど失敗してる親友とか、経済が苦手なのに株の仕事ついてクビになった親友とか。

なんていうか、みんなそれぞれ「欠け」、「弱さ」があるんですよね。
主人公のヒュー・グラントはというと、イケメンだけど、マヌケで、天然。

そんなヒューの友達の輪に、突如としてジュリア・ロバーツが現れる。
当然みんなは、
「あなたは悩みなんてないんでしょ?」
って言うんです。

だけど、ジュリアは言う。
「そんなことない。私はずっとダイエット。私は二度も整形した。付き合う男に殴られた。本当の私は、きっと一番みじめよ。」
(ちょっと言葉が違うかも。笑)


なんか、そんな彼らのつながりを観て、不思議と安心したし、共感できた。

実際、聖書にも書いてるけど、完璧な人間なんて、この世界に一人だっていやしない。
また、一人で生きている人なんて、いやしない。

みんなそれぞれ、「欠け」をもってて、「弱さ」をもってて。
一人で生きていけないから、誰かを必要として。

それが、いくつになっても、どんなに能力を磨いても、変わらない事実。
それを、認めるか、認めないかだけ。



結局、二人の間には何度も問題があって、別れたりもした。
そんな二人だけど、最後の最後に、全ての名声を手にしたジュリアがヒューに言う。
「名声なんて実体のないものなのよ。忘れないで。私もひとりの女よ。好きな人の前に立ち、愛してほしいと願っている。」

なんか、女優じゃなく、一人の女性として、ありのままの自分の言葉で語るその姿がとっても素敵だった。
(実際には、ジュリアはこの役を「演じて」るんだけど…笑)


この映画を観て思った。
僕も、本当にありのままでありたいって。
欠けだらけ、弱さだらけの僕だけど、飾らず、背伸びせず、ありのままで生きたいって。

それを可能にしてくださるのは、イエスさま。
ありのままのめちゃくちゃな僕を、そのままで、永遠に受け入れて下さるのはイエスさまだけ。
そのイエスさまがいつも一緒にいてくださるからこそ、僕はありのままで生きていける。

家族の前でも、友達の前でも、教会でも。
そして、いつか医者になったら患者さんの前でも。
いつか夫になったら、奥さんの前でも。
いつかパパになったら、愛する子どもの前でも。

いつでも、どこでも、イエスさまにあって、飾らない、ありのままの自分でいたい。
そう思う。

逆に言えば、僕がありのままになれない限り、イエスさまの素晴らしい御力は僕を通して働かれないと思うから。


よーし、さっきも書いたけど、明日も一日がんばりまーす♪
めっちゃん(一番上のお姉ちゃん)&あいし(一番下の弟)が来るの、楽しみーー!

トンネル

こんばんは。

今日は、二度もブログを更新することができて、本当に神さまに感謝。
そして、この一日を守り、導いて下さったのも、全て神さま。

僕は、日々、この一瞬も、ただ神さまの恵みのゆえに生かされている。
そのことを、本当にうれしく思うと同時に、身が引き締まる。
この時代で、この日本で、神さまが僕に何をすることを求めておられるのか、真剣に求めたい。

今日、家に帰る途中に、TSUTAYAに寄った。
そして、ある映画に目がとまった。
それは、ドイツで撮影された映画で、「トンネル」。

1961年、第二次世界大戦後のドイツが舞台。
当時、国家の政略によって、突如として「ベルリンの壁」ができた。
愛する家族、兄弟、友人、恋人。
突然に、人為的に分断されてしまう人々。
その中で、145mものトンネルを掘り、多くの人を脱出へと導いた人達がいた。
この映画は、実話に基づいた物語。

ラストのトンネルを走り抜くシーン、後ろから追ってくる東ドイツの兵士たち。
その様子は、旧約聖書に出てくる、モーセ率いるユダヤ人がエジプトの兵士たちから逃げる姿を彷彿させた。

この映画を見ながら、僕はただただ静かな危機感を心に抱いた。

これが、「現実に」あったのだ。
映画上ではなく、小説上ではなく、実際に僕が生きているこの「地球上」で起こった「事実」なのだ。


歴史。
それは、実際にあった事実だ。
裏を返して言うならば、僕らが今生きる、この現代に起こりうるということだ。

そして実際に、僕らが映画で見ている銃撃が、ニュースで見ている子を失う母の嘆きが、今この時も地球上のどこかで行われているのだ。


自由。
僕らは、今、思うようにアイデアを発し、それぞれが思うままに宗教を持てる。
これは、当たり前ではない。
今この時、「イエス・キリスト」というお方の名前を語ることを、「聖書」という神さまから与えられたこの上ない恵みを読むことを、自由にできない人達が同じ地球の上にいるのだ。


僕は、何も皆さんに恐れてほしいわけではない。
不安をあおっているわけではない。
そうではなくて、これが「現実」だということを、忘れてはいけないということだ。

そして、この現実の中で、しっかりと地に足をつけ、「生きて」いかなければならないのだと思う。

僕は、イエス・キリストを信じている。
心から、この神の御子、救い主を信じ、この方を信じる時、すでに天国への扉が開いていることを確信している。

だから、恐れる必要はない。
ただ、イエス・キリストにあって、一歩一歩、今この時を生きていきたい。


前回の記事でも書かせていただいたが、日曜の選挙は今後の日本にとって非常に大きな意味を持つ。
今、体験してるこの日本の「現実」、日本の「自由」。
それは、何も当たり前ではなく、これも神から与えられている恵みだということを忘れてはならない。

僕は、この恵みを無駄にしたくない。
この現代に、この日本に生まれた者として、やがて天国に行った時、
「よくやった、お前は忠実なしもべだ。」
そう言われるように、今を一歩一歩歩みたい。
そう思う。


2012/12/12
佐々木満ちる

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