Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

基本的なこと。

こんばんは!


だいぶ、御無沙汰してしまいました。


実は、ブログの記事は何個か並行して書き進めているんです。


でも、なかなかアップができなくて…


ことばを大切にしようと思えば思うほど、ことばに詰まります。


ただ、これもまた二つの側面があって、慎重に、丁寧にことばを選ぶことが大切である一方、勇気を出してことばを伝えることも大切。


今日は、勇気を出します!笑



この1か月、僕にとって、本当に大きな「気付き」が与えられました。

今日はそのことをお伝えしたいと思います。



このことばが、神様の導きの中で、伝わるべき人に伝わりますように。




先日、研修医の同期たちと旅行に行ったんです。

淀川キリスト教病院では恒例の行事で、研修を修了するにあたって、14人の同期全員で旅行に行くことが許されています。


行先は、城崎。

北海道人の多くの方は、この読み方が分からないですよね。

僕も最初は分かりませんでしたが、どうやら「きのさき」と呼ぶようです。

北海道では見たことがないような、素敵な温泉街でした。


その街には「外湯(そとゆ)」と呼ばれる温泉屋さんが7つあり、旅館に荷物を置いた後は浴衣に着替えて、下駄をカランコロンと鳴らしながら、その温泉を一つずつ回るんです。(大抵一回の旅行では全部回れないそうですが。)


もちろん、僕ら以外にもたくさんの観光客が居て、旅館ごとに色の違う浴衣を着て歩いています。


なんとも、風情がありました。




ただ、旅館に着いた後、僕はちょっとばかり失敗をしてしまいました。

同期に対して、言わなくても良いことを言ってしまいました。

出さなくても良い感情を出してしまいました。



うーん。。

正直、それから数日とっても落ち込んだんです。



何に落ち込んだのかというと、

「自分がまだこんなにも未熟だったんだ」

ということに落ち込んだんです。



もしかしたら、読んでおられる方の中には、僕が何を言っているのかよく分からない方もいらっしゃるかもしれませんね。笑



ただ、これこそ、僕がクリスチャンとしてこれまでしていた、大きな大きな勘違いだったんです。



つまり、僕はこれまで、クリスチャン的に言うなら、『行い』に寄りかかっていたんです。


自分がしたこと。

自分が話したこと。


それが、自分のイメージしている通りならば、自分の中の『良いことリスト』に入っていることならば、僕はとっても元気になります。


人の相談に乗ったり。

人を励ましたり。

仕事を一生懸命できたり。

聖書をきちんと読めたり。

お祈りしてゆっくり神様との時間を取れたり。


これら『良いことリスト』に入っていることができていると、僕はとっても元気で、晴れやかで、明るくなります。



でも、逆に言うと、『良いことリスト』に入っていることができないと、とっても落ち込むんです。

だから、今回の旅行で、行儀の悪いことをしたり、人を嫌な気持ちにさせてしまったりして、あんなにも落ち込んだんです。




でも、家に帰ってから、落ち込んだ気持ちで数日過ごす中で、


「あれ…これって、もしかして俺は大きな勘違いをしているのかも…」

って気付かされたんです。



そう、僕がこれまでクリスチャンとして、寄りかかっていたのは、「行い」だったんです。


そのことに気付かされてから、僕は自分の一日一日を観察してみました。

すると、本当に、僕の一日は「行い」に引っ張られてばっかりだったんです。


ちょっとでも仕事に身が入っていなかったりすると、

「自分はこんなんじゃだめだ。クリスチャンとしてだめだ。」

と自己批判し、落ち込み。


余計なことを言ってしまっては、

「だめだ…またやってしまった。」

と落ち込んでいました。



この考え方の問題点は、実は僕自身の気持ちだけではないんです。


それ以上に危ないことは、「行い」に引っ張られてしまうと、同じように「行い」で周りの人たちを批判してしまうということ。



「あの人は、クリスチャンとしてどうなんだろう。」

「あの人、あんな失敗をして…。」



そうやって、クリスチャンも、クリスチャンじゃない人も、たくさんの人を批判していたことに気付かされたんです。



でも、聖書にははっきりと書いてあります。


「すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」
ローマ人への手紙2章1節



本当にその通り。


僕は、周りの人たちを心のどこかで批判していましたが、振り返れば、僕自身同じような失敗をしていたんです。

なのに、人のことばかり批判していました。


本当につくづく、自分っていう人間の未熟さを知りました。




それでは、クリスチャンとして、「行い」に寄りかからずに、何に寄りかかれば良いのでしょすか。

神様は、聖書を通して教えてくださっています。


「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
ローマ人への手紙3章24節

「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」
ローマ人への手紙3章28節



そう。


僕は、僕自身の「行い」では、決して救われない。


ただただ、イエス様を救い主として信じる、「信仰」によって救われている。



そんな基本的なことに、僕は改めて気付かされました。


正直、自分でも、クリスチャンとしてこんな基本的なことをまだと分かっていなかったのかと、びっくりしました。


ただ、頭で知っていることと、真に悟っていることとは違うのだと思います。



今回、このことに気付かされて、本当に、本当に良かったです。



それからというもの、自分の毎日の生活の中で、少しでも「行い」に引っ張られているのを感じた時は、

「違う!!違う!!俺は、『行い』によっては救われてないんだ。イエス様のことを、信じているから、この信仰によって救われているんだ!」

って言い聞かせてます。


何度も、何度も。



そしたら、本当に気持ちが楽になりました。



人のことを、批判的に見づらくなったんです。
(今でも見ちゃうことがありますけどね(^^;)



自分も、罪人。

自分が誇れることは、イエス様を知っていることだけ。


そう思うと、とても穏やかな気持ちになれる。




僕は、自分の「行い」では救われていません。

イエス様を信じているから、救われているんです。

イエス様を信じて、その救いを喜んで受け取って、感謝して。


明日も、生きたい!!



おやすみなさい。

ことばが人となる。

こんばんは。

ご無沙汰しております。


北海道の旅を終えて、大阪に戻り、早いもので1週間が経ちました。

旅の疲れか、戻ってから体調を崩し気味です。

体調と一緒に気持ちも崩れそうになりますが、祈りつつ、一日一日を、丁寧に、大切にしていきたいと思っています。



昨日と今日は、重症心身障がい児者(以下重症児者)の勉強会に行ってきました。

とてもためになる勉強会でした。


ただ、分かったことは、

「重症児者を取り巻く環境は、本当に複雑で、本当に難しい」

ということでした。


重症児者はあらゆる境界線の上に置かれています。



家族とスタッフ。
(必要とされるスタッフの種類・数は簡単に書き表すことができないほどです。)


行政と民間。


医療と福祉と教育。


児(18歳未満)と者(18歳以上)。


法律と法律。



決して、一元的に解決することはできません。

それらを取りまとめ、コーディネートする人材が、今日本で求められています。

実は、僕はそういった仕事をしていきたいと思っています。

しかし、それは神様の御手にあります。
神様が示される道に、忠実に従うことが、僕のすべきことです。



重症児者について、僕には2つの信念があります。


1つは、これほど複雑で、難しい、重症児者が本当に笑顔になれる社会は、全ての人が笑顔になれる社会だということです。

重症児者の一人ひとりにきめ細やかなサポートをできるように尽力していていくことが、日本の全ての、弱い、困った人たちをサポートするためのきっかけになると信じているのです。


もう1つは、重症児者は、神様が本当に愛されている人たちなのだということです。

これは、言葉にすることは難しいですが、近くにいると、神様がお一人おひとりを愛しておられることを感じるのです。




また前置きが長くなってしまいましたが、今日のテーマについて書きたいと思います。


僕も本気でクリスチャンとして歩み始めて、まだ浅い未熟な者ですが、それでも、これまでの日々の中で確かに神様は僕を成長させてくださいました。

神様が、僕をイエス様の似姿へと一つひとつつくり変えて下さっていることを、感じるのです。

リアルタイムで、実感しているわけではありません。

でも、ふとした時に自分の歩んできた道のりを振り返ると、確かに神様は僕を成長させてくださったのだと感じます。


クリスチャンにとって、「成長」とは何なのでしょうか。

「イエス様に似た姿に変えられていく」とはどういうことなのでしょうか。


そのようなことを思いめぐらしていた時に、ふと思い出されたのは次のみことばでした。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方の栄光を見た。

父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた。」


ヨハネの手紙1章14節


「ことば」とは、イエス様のことを表しています。

イエス様が、私たち人間の中で住まわれ、神の御子として生きておられることを示しています。


「ことばは人となる」

「みことばが人となる」

この表現が、僕の中でとてもしっくりきました。


僕らが、成長していくこと、イエス様のように変えられていくことは、僕らのうちで神様のことばであるみことばが人となっていくことなのだと感じました。



クリスチャンはよく、みことばを「パン」に例えます。

人間がパンすなわち食べ物を口にしなければ、いつかは死んでしまうように。

クリスチャンも、一度救われて新しいいのちが与えられたとしても、みことばという目に見えないパンを食べ続けなければ、力を失ってしまいます。



それでは、みことばをただ読めばよいのでしょうか。

ただ毎日聖書を読めば良い、聖書の箇所の一部を暗記すれば良いという単純な話なのでしょうか。


これも、体に置き換えて考えると分かりやすいです。

食べ物も、ただ食べれば良いというわけではありません。


食べて、消化して、吸収して、始めて僕らの力や成長の材料になります。


同じように、僕らはみことばを消化し、吸収しなければなりません。

ただ、それはすべて神様がしてくださることです。

神様が、僕らが口にしたみことばを、僕らの日々の生活・人間関係を通して、しっかり消化し、吸収できるようにしてくださいます。


僕自身、これまで机の上で学んだだけのみことばは、本当の意味で僕自身の力とならなかったことを思い出します。


生活の中で。

人間関係の中で。

実践して。

失敗して。


その中で、神様はみことばを消化・吸収させてくださいました。

本当の意味で、消化・吸収したみことばは、僕の力となり、盾となり、剣となりました。


これこそ、僕の中で「ことばが人となる」経験でした。


ただ、最後に一つ大切なことをお伝えしたいと思います。

これまでも何度かお伝えてきたことですが、

「ことばが人となる」時間は、

種が芽を出し、成長し、やがて花を咲かせるようにとてもゆっくりだということです。


そんな、リアルタイムには分からないかもしれません。

でも、確かに神様は僕らのうちに落とされたみことばの種に、

生活や人間関係という栄養や水分を加え、

そして花が咲くように僕らの中で力と変えてくださいます。



みことばは、僕らの力です。

みことばは、僕らを守ってくれます。

みことばがなければ、僕らは立ち続けることができません。

この日本で、日々みことばを握り、クリスチャンとして日々成長させていただきましょう。



おやすみなさい。

「信仰とは何か?」 2016 ver.

あけましておめでとうございます。

今年も、宜しくお願いします。


このブログは、神様が僕に始めさせて下さった、大切な使命のひとつだと思っています。
早いもので、書き始めてから今年で7年目に突入します。

何度も挫折しそうになりましたが、こうして続けることができているのは、神様とそして皆さんのおかげだと思っています。

これからも、神様に祈りつつ、聞きつつ、「ことば」を大切にして続けていきたいです。


話は変わりますが、皆さんは大晦日をどう過ごされましたか?

僕は、研修医の同期二人と三人過ごしました。
実は去年もこの同期の二人のうちの一人と一緒に年を越しました。
2年間ずっと一緒に苦楽を共にしてきた仲間たちです。
きっと、来年からは後期研修に入って今までのようには会えなくなってしまうので、同期たちと年を越せて嬉しかったです。


佐々木家にとって、大晦日はとても大切な日でした。
小さい頃は、父さんは大晦日になると、7人の子供たち一人ひとりを呼び出します。

そして、それぞれ約1時間ずつ、計7時間もの面談があります。笑

今思えば、どれほど父さんがエネルギッシュだったのか、いや子供思いだったのかと感じます。

しかも、その密度の濃いこと、濃いこと。

出だしから父さんにこう聞かれます。

「父さんに、いや神様に隠していることはないか?」


僕を含め、兄弟はみんな顔色を変えて、1年を振り返ります。

すると、ボロが出るわ、出るわ。

それまで隠していたことを、年末に洗いざらい告白することになるのです。



父さんとの面談を終えた兄弟はこぞって、

「どうだった!!!何聞かれるの!!」

と、まるで試験問題かのように申し合わせました。


そして、全ての面談が終わった後、いよいよ僕らが楽しみにしているごちそうの時間がやってきます!

がしかし、その前に最後に家族全体に対する、一年間の総括があります。
(これがまた長いのです。)

気づけば、目の前で湯気が立っていたごはんはみるみるうちに冷めていきます。


そして、約1時間の総括が終わり、夜8時頃に年末最後の晩餐が始まります。
(母さんは静かにレンジでごちそうを温め直します)

その後みんなでゲームをしたり、紅白を見たりして、なぜか毎年ジャニーズジュニアの番組でカウントダウンをするのです。
(理由はおそらく小さかったころお姉ちゃんが隠れジャニーズファンだったからだと思われます。)


父さんは、果たしてこの1日を通して、子供たちに何を伝えたかったのだろうと、一人になって思います。


僕は、あれほど辛い1日でしたが、大晦日が大好きでした。


父さんと、母さんの言葉にならない愛を感じる1日だったからです。

「本当に、この家に生まれることができて良かった。」

なぜだか、そう思えました。


そんな大晦日は、実は大学6年が最後だったのだということを、働き始めてから気づきました。
もう、あの大晦日は味わうことができませんが、僕ももし子供が与えられたら、「この家に生まれて良かった。」と思ってもらえるような、そんな大切な1日にしたいです。



とまぁ、今年も前置きが長いですね。



2016年最初のテーマは、「信仰」です。

僕は未熟なクリスチャンですから、
「信仰とは○○です!!!」
なんて、語ることはできません。


しかし、2016年1月現在の僕にしか語ることができない、「信仰」についてのメッセージがあるとも思います。


聖書には、信仰についてこう書いてあります。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」へブル人への手紙11章1節


信仰とは何か、端的に書いてある箇所です。
何度も箇所を読んできましたが、どうも分かるような、分からないような。
つかめたような、つかめていないような。


「結局信仰とは何なのだろう?」
とずっと思っていました。


まさに、その時の僕の心情が描かれた記事がこれです。
「「信仰」って何だろう?」
http://christianstudent.blog27.fc2.com/blog-entry-165.html



そんな私の転機になったのは、大学時代の一つの出来事でした。

その時の記事がこれです。
「信仰」
http://christianstudent.blog27.fc2.com/blog-entry-452.html



大学時代のKGK(キリスト者学生会)の中での出来事。
絶対に間に合うことができないと思っていた聖書研究会の前に、必死になって祈りました。

「神様、もし御心なら、この聖書研究会に行けるようにしてください!!!!」

何度も何度も祈った結果、神様は僕が無事に行けるように助けてくださったのです。


それが、とっても嬉しかった。

改めて「目には見えないけれど、神様は生きておられる!」と確信したし、神様が働いて下さることを信じて、そしてそれがかなえられたことで、僕の中に小さな「信仰の芽」が芽生えたことを感じたのです。


それからというもの、僕は一つひとつを神様を信じて、委ねていくようになりました。
最初は小さなことでしたが、神様への信頼が増し加わるようになる中で、少しずつ大きなことも神様に委ねることができるようになりました。

そして今では、「人生」という大きな大きなものを神様に委ね、こうして一人大阪で生きています。


縁もゆかりもない大阪に来るということは、大きな決断でしたが、神様がここに遣わしてくださったのだという平安がいつもありますし、実際に自分は想像もできなかった出会いや成長など、素晴らしいものがたくさん与えられました。
そして、神様と僕の関係は更に深まっていきました。



最後に、この神様との僕の数年間を通して、「信仰」について教えられた三つのことをシェアしたいと思います。


一つめは、とてもシンプルだけど、大切なこと。

それは、
「信仰は、信じる者にしか与えられない。」
ということ。


信仰は、頭で考えても分かりません。
目に見えない神様を信じ、そして神様が応えてくださったことを受け取らない限り、決してつかむことができません。



二つめは、
「神様は小さなものから信仰を試される。」
ということ。

僕も、最初から人生や結婚など、大きなものを神様に委ねることはできませんでした。
目の前にあるひとつの問題や、ひとりの人との人間関係など、まず小さなことを神様に委ね、その中で信仰が芽生え、訓練されることで、少しずつ大きなことも神様に委ねることができるようになります。



三つめは、
「信じるということは、委ねるということであり、その主導権・決定権を完全に神様に明け渡さなければならない。」
ということ。

これは、とても重要なことで、かつとても難しいことでした。


たとえば、結婚について。
「神様、あなたを信じます!あなたが最高の結婚を与えてくださることを信じます。」
という信仰を持つとき。

僕らは、その結果を全て委ねなければなりません。

もしかしたら神様は、
「あなたはまだ結婚する時ではない。」

もしくは、
「あなたは一人で生きていくよう召されているよ。」
と語られるかもしれません。


また、もしかしたら神様はあなたが描いている「理想の男性(女性)」とは全く違うタイプの人にあなたを導くかもしれません。


それでも、
「神様が用意しておられる計画が、私が計画していたものよりも遥かに素晴らしいものです!」
と信じて、委ねていかなければならないのです。

人は生まれながら、罪を抱えて生きる中で、気付かぬうちに自分のイメージや考えを一番大切にしています。
しかし、神様を信じるということは、それらを全部捨て去り、神様に一切の主導権・決定権を委ねなければならないのです。


だからこそ、小さいことから、神様は僕らの信仰を訓練されるのです。

「えっ、神様こんな風になるなんて・・・全然自分のイメージと違う!!神様なんでですか。」
僕もこんな風に思ったことが、何度も何度もありました。


でも、その後に必ず、
「あぁ、これで良かったんだ。やっぱり、自分の考えやイメージではなく、神様が導かれたものが最善だったんだ。」
と気づかされてきました。

そんな日々の中で、神様への信頼はどんどん増し加わってきたのです。



2016年が始まりました。
皆さんの新しい一年が、神様を信じ、委ね、従う一年になりますように。
皆さんを通して、神様の素晴らしい計画が成し遂げられますように。


P.S. 今日は久しぶりに実家の北海道北見市に帰ります!
楽しみです♪

委ねる。

こんばんは(^^)


今日も、こうしてブログを書けること。

そして、このブログを通して、あなたにメッセージを送れることをうれしく思います。


もう何度かお読みの方はお気づきだと思いますが、僕はこのブログが万人うけするようには願っていませんし、そういう文章は書きません。


ほとんどの場合、あて先は同世代のクリスチャンです。


今の日本には、本当に多くの問題がある。


政治、経済、教育、医療、宗教。


僕の小さな頭ではわからないけれど、今まで考えないようにふたをしていた一つひとつの問題が、いよいよふたをあけて考えなければいけない時代に突入していて。



でも、しばらくふたをしていたせいで、手の付けられないような問題もたくさんあると思う。



しかし、僕らクリスチャンは、神様を信じてる。



僕ら人間にできないことでも、神様にはできる。それを本気で信じているのがクリスチャンの僕ら。


今、この国には、本気で神様を信じるクリスチャンが必要。


そして、特に重要なのは、これからの時代を担う次世代のクリスチャンだと思う。


僕は、一人ではこの国でクリスチャンとして生きていく自信はない。



あなたと一緒に、イエス様を信じて、神様を信じて生きていきたい。



だから、今日も書く。



僕らは、もしかしたら一度も会ったことがないかもしれない。


これから会う人もいれば、会わない人もいる。


でも確かなことは、天国で必ず会えるということ。



聖書には、神様のみこころを行う人が、家族だって書いてある。


たとえ会ったことがなくても、神様のみこころを行うあなたは、家族です。






今日は、前回の記事にも関係するけど、「委ねる。」ということについて書く。




「委ねる。」



クリスチャンが本当によく使う言葉だ。



僕はこれまで、委ねるということは、受動的な言葉だと思っていた。


どこか、「神様に委ねる。」ということは、自分は一歩引いて、受け身となり、神様の力にお任せするというイメージだった。





しかし、最近違うんだと気づいた。



神様が求めておられる、「委ねる。」は僕らの能動的で、積極的で、主体的な態度が必要だ。



ちょっと、漠然としてしまうかもだけど。


神様の愛の輪の中に。


神様の光の中に。


とどまる中で初めて使える言葉だと思う。




逆に、「委ねる。」ということばを、自分の欲望や思うままに生きている中使っても、何も委ねていないということ。




神様を信じて、期待して。


そのみことばを本当に大切にして、祈り。


そうして、神様との交わりの中で、愛の中で、光の中で、本当の意味で自分の弱さや無力さを知り、神様にお任せする。



海に道をつくり、山を動かすことだってできる神様を信じて、期待する。



それが委ねるってことだと思った。



だから、これからは僕は「委ねる」っていうことばを、口にするとき、自分の心の状態を確かめようと思う。

ふさわしくないときは、深呼吸して、静まり。

きちんと、イエス様にあって神様の前に出て、悔い改めるべきことを悔い改めて。



そうして、「委ねます!」って言いたい。




今日はここまで。


日本の若いクリスチャンたちが、本気で神様に委ねることができますように。

委ね、従うことができますように。

洞窟生活

こんばんはー(^^)


大阪・・・暑いですよーー(T_T)


昨年の大阪一年目は、ずっと内科をローテートして、ずっと院内にいたから、外の暑さに触れることがなかったけど。

二年目になり、院外のクリニックの訪問などをしていると、本当に肌で感じる。



暑い!!!



実際に、脱水症状となる方も増えておられるそうです。

皆さんも、十分お気を付けください。




さてさて、本題に。



実は、僕はここ最近、結構長い「洞窟生活」に入っていました。


洞窟生活っていうのは、さっき思いついた言葉なんですが、僕はこれまで年に何回かこの生活に入ります。


どういうことかっていうと、何か問題があった時に、一人で抱え込んで、悩んで、くらーーーい洞窟に入ってしまうんです。

一度入ってしまったら、僕はなかなか出てこれない。

てか、これまでも自力で出てきたことがない・・・笑

たいてい、神さまが「満ちるいい加減出てきなさーーい!!!」って声かけてくれて、やっと抜け出せる。



なんで、そんな暗くて、しんどそうな「洞窟生活」に定期的に入るかっていうと。



単純に、これまでの僕にとって、問題を解決するための最強?(笑)の方法だったから。


その問題に対して、自分の心と体をすり減らしてでも、向き合い、向き合い、向き合う。

「あきらめたらそこで試合終了です。」というスラムダンクの安西先生の言葉を胸に、僕はこれまで何度も「問題」と戦ってきた。


実際に、この洞窟生活を通して、己の弱さや無力さを知ったりして、とっても大切なことを学ばせてもらってきた。




でも。




今回で、俺はもう洞窟生活に固執されるのをやめようと思う!!




今回の洞窟生活に入った僕を見た、仲の良い同期にはこう言われた。


「みっちー・・・一人で抱え込んでるとき、本当に近づけないよ・・・。周りを寄せ付けないオーラがでまくってる。」




それに、以前クリスチャンの後輩にはこんなことを言われた。


「満ちるさんのそのストイックなところ・・・すごいと思いますけど、クリスチャンってそんなにしんどいものなんですか?僕には無理です・・・」





うん。


人にそう思わせる生き方って、、絶対に不健全だ!!笑




どうしてそこまで僕は洞窟生活に固執していたかと考えるとき、ある意味それが一つのプライドだったんだと気づく。

「俺は向き合ってきた!」

「俺はあきらめずに問題と対峙しているんだ」

っていう、よくわからんプライドと情熱が、僕を洞窟生活に駆り立てていた。





そんな中で、神様は僕にあるみことばをプレゼントしてくれた。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
Ⅰペテロ5章7節



正直、このみことばが神さまから語られたときは、もう思い煩いの限界で、うるってきた・・・

心にすっごいしみた・・・・



同時に、「ゆだねる」ってどういうことなんだろうって考えた。


そしたら、僕はもう何も考えなくていいのか?


僕は何も考えずに、感じるままに生きればいいのか?



それも違うって思った。



まずは、認めろ!!ってこと。


僕が、本気で向き合ったって、わからないことだってある。

だって、僕は神さまじゃないもん!!


それに、僕が向き合ったところで、僕はまた失敗をするってこと。そんな簡単にうまくはいかないってこと。

でも、神様は神様を信じる者には、それがたとえ失敗であっても、神様の計画を成し遂げるために用いてくださるってこと。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
ローマ8章28節





そして、僕はもう一つのすてきなことに気付いた(^^)

これも、「真理は二つの中心をもった楕円である。」って言葉にリンクしてるってこと♪



ここに、二つのみことばを並べる。


「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
ローマ12章2節
(あーーーー大好きなみことば・・・笑)


「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
ピリピ4章6-7節
(これも、本当にほっこりする大切なみことば)


どちらも、確かに聖書に書かれてある真理。

でも、僕はこれまで、どちらかというと前者のようなストイックな考えが中心だった気がした。


ヤコブが、神さまと格闘して、「祝福してくださるまで放しません!!!」ってつかみ続けて、最後に股関節をはずされたように。

本気で、ストイックに、神様に向かって全速力で走っていけば、向き合っていけばいい!!ってシンプルに考えてた。




でも、それと同時に、僕らは「ゆだねる」ということも同じように大切なことなんだと知った。

自分の小ささを知り、無力さを知り、失敗を繰り返してしまう自分を認め。

それでも愛し、用いてくださる神様に、リラーーーーーーックスしてゆだねること。


それは、神さまを心から信頼していないとできないことで。

神さまはゆだねる心を本当に喜んでくださる。




どちらかが大切なんじゃなくて、どちらも本当に大切なんだって今回のことで学んだ。



もう洞窟生活は終わり!!!


一人で抱え込まず、神様の光の中で、自分と向き合い、そしてゆだねていきます(^^)♪

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