Life

いまを生きる一人のクリスチャンの、生活、人生、いのち。

元気ないシーズン

おはようございます(^^)

今日は当直明けで、さきほど家に帰ってきました。

家に帰る途中、いつもの商店街を歩いていると、

「朝9時から10時の間は、コーヒーが200円!」

という広告が目に入り、

ゆっくり一杯だけ飲んできました。


正直、今日は家に帰ったら、

ぼーっと撮り貯めたドラマを見て、眠くなったら寝て、

いつもの「ぐーたら当直明け」を過ごす気満々でした。


でも、コーヒーを一杯飲みながら、

いつも愛読しているデボーションの本の、

「いと高き方のもとに」をパラパラ見返す中で、

自然と心が神様に向かっていきました。



正直、この1ヶ月弱は気持ちがかなり落ちていました。

実は、無事に先月長男が生まれ、立ち会うこともできて、

幸せ真っただ中にいたのですが・・・


その後の日々の中で、人との関わりや、仕事の忙しさで、

僕のからだとこころとたましいは、疲れていきました。



僕も生まれて27年経ち、

こんな風に気分が落ち込むのは初めてではないので、

「あっ、またいつもの元気がなくなるやつが来たんだ・・・。」

「雨の日や、冬のように、過ぎ去るのを待つしかないな・・・。」

と思っていました。



そして僕がこんな風に気持ちが落ち込むと、

決まって示されるのが、Ⅰ列王記19章のエリヤの落胆の箇所。


今回も、19章1~18節を繰り返し読みました。


そして、「この時期が早く過ぎ去れば良いのに。」と願っていました。



しかし、今回は結構長くて。

かれこれ、1ヶ月弱。

気持ちが落ち込んでいました。

そして改善するどころか、

先日妻と息子に会いに北海道に滞在し、

その後大阪に戻ってきたギャップでさらに気持ちは落ち込んで、

悪化さえしていました。


「こりゃ困った・・・。」

と思い、途方に暮れていたのが、今の僕。

そして、家に帰って、撮り貯めたテレビドラマでも見ながら、ぼーっとしようと思っていた・・・

という最初の話に戻ってきました。笑




だけど、コーヒーを飲みながら、ぼーっと本を眺めていた時に、

「いと高き方に」という本のこんな一節が目に入ってきました。


「失望や抑圧に襲われる時、私たちはそれを、神や人のせいにしようとする。」

まさにその通り。。

僕は最近あったことに対する自分自身への失望や、

仕事という抑圧に対して、

神や人のせいにしていました。

神に対して、

「なんで俺はこんな目に合わなきゃいけないんだ・・・」

そして周りの人に対して、

「あの人はいいよなー。ある程度時間にも余裕がありそう。

なのにあれこれはしてないのはなんでだろう・・・。」

と不満が溢れ出ていました。


さらに語られます。

「神は個人的な生活において、あなたを危機に直面させる。

そして人はそれを助けることはできない。・・・

意志をもって神に向かわないなら、自分自身をあわれむ結果に終わるだろう。」



おうおうおうおう。

突き刺さる。

突き刺さる。

この本の著者、オズワルド・チェンバーズ氏というひとりの人を通して、

神は僕に語ってくださいました。


そして、この箇所が思い出されました。

「神が私たちに与えてくださったものは、

おくびょうの霊ではなく、

力と愛と慎みとの霊です。」

Ⅱテモテ1:8


私は、今の状況の中で、

自分自身を憐れみ・・・

いわゆる「自己憐憫」というやつに陥っていました。

そして、神や人のせいにしたり、怒りを向けてみたり。


でも、そこからは何も生まれない。


僕は、この状況の中でも、ともにいてくださる神に心を向けていきたいと思わされました。


冒頭でお話した、いつも読むエリヤの箇所。

彼も、同じように自暴自棄になり、自己憐憫に陥った。

でも、神はそれでも彼とともにいてくださいました。


同じように、神はこのしんどい数週間も、ずっと私の横にいて、

こう励ましてくださっているのです。


「わたしはあなたに命じたではないか。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、

あなたとともにあるからである。」


ヨシュア記1章9節




エリヤは、あの後神により力づけられ、もう一度立ち上がりました。

神は彼を見捨てず、彼に使命を与えられました。


神はエリヤと同じように、私をあきらめず、私に力強く働いてくださっているのを感じる。



やめよう。

自分を憐れむの。

神や人のせいにすることも。



意志をもって神に向かおう。

力と愛と慎みという、神の霊にあって生きるために。

水の上を歩くようなもの。

こんにちは!


ご無沙汰しております。


2016年もあと少しですね。


皆様にとって、2016年はどんな1年だったでしょうか?



この年の最後に、神様に助け守られた1年を振り返り、ブログを書きたいと思います。



少し話は前後しますが、最近少しずつ、このブログに対する思いが変わってきました。


以前は、「書かなければ!」という義務感みたいな思いがあって、更新していないと何となく後ろめたさを感じることもありました。

でも、そういった思いで書き始めても、書き終えることができないことがしばしばありました。


そういうことを繰り返しているうちに、


このブログは、神様のものであって、

自分という一人の人間に、

神様が働いてくださる中で、

思いや言葉が湧き上がってくることを待ち詫び、


湧き上がってくるその時に喜びをもって、

祈りつつ、

丁寧に綴っていけばいいのだと思うようになりました。



これは、自分にとって大きな変化でした。



自分のいのち、

自分の生活、

自分の人生の主導権が、


神様に渡されれば、渡されるほど、僕は本当に自由になっています。



2016年、今も生きて働いておられる神様のすばらしさを、

全身全霊で感じた一年でした。




今日は、その一つのお話を書かせていただきたいと思います。


このブログを通して、

神様のすばらしさが、その大きな力とご計画の中で届くべき人に届きますように。




僕は、お世辞でもメンタルが強い方ではありません。


不安な気持ちに陥りやすいですし、心配性なところもあります。


そんな僕が、医師として働いて3年間。

正直荷が重いと感じたことは何度もありました。


それだけでなく、

淀川キリスト教病院でのクリスチャンスタッフとしての集まりのリードや、

石橋キリスト教会での賛美リードなど。


「自分にはできない」と逃げだしたくなったこともありました。



でも、2016年の秋ごろ、聖書の次のことばが、僕の心に留まりました。



イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。

「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」

イエスは彼に言われた。

「行って、直してあげよう。」

しかし、百人隊長は答えて言った。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは治ります。・・・」 ・・・

それから、イエスは百人隊長に言われた。

「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」

すると、ちょうどその時、そのしもべは癒された。


マタイの福音書8章5-8、13節



クリスチャンの方であれば、一度は聞いたことがある話だと思います。



僕も、何度も読んだことがある箇所でした。


だけど、あの時、百人隊長のこのことばが僕の心に響きました。


「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは治ります。」



あのとき、

「このことばこそ、『信仰』なんだ!!!」

と強く感じ、感動したことを覚えています。



とてもシンプルだけど、信仰とはこういうこと。

まず、僕に必要なのは、ただ天の父なる神様の、イエス様の、「ことば」、「約束」、「ご命令」。



それが僕に与えられたのなら、与えられているのなら、その時点ですべての問題は解決しているのです。



神様のことばは、約束は、ご命令は絶対で、神様に不可能なことはないからです。



このシンプルな関係こそ、神様と僕との正しい関係なのだと感じたのです。



逆に言うと、僕らは神様のことばを待たずに、自分勝手に行動してしまうことがあります。

「これは、世間一般に良いと思われることだから。」

「だって、聖書に書いてあることだから。」


でも、本当に大事なことは、それが神様が、僕に、与えてくださっていることなのかということ。


これがすべて。



僕自身、「これは良いことだから!正しいことだから!」という動機の中で、

自分の情熱と体力と能力とで、挑戦したことがいくつもありました。

でも、そのたびに挫折したり、失敗したり、長続きしなかったり。

だって、僕自身にはそれらを成し遂げる力がないから。


そんなことを繰り返すうちに、百人隊長のことばの意味が、僕自身に強く迫ってきたのです。


僕に本当に必要なのは、

イエス様の十字架における死と復活によって、

父なる神様との関係を回復した中で、

聖霊を通して神様の御思いを知るために祈り、

そして、与えられた神様のことばを、約束を、ご命令を、


ただただ信じること。


それが一度与えられたのなら、決して疑わず、


信じて前を向いて歩き続けること。


目の前のことに誠実に、忠実に向き合うこと。



でも、僕らは弱いもので、一度与えられた神様からのことばを、疑ったり、つぶやいたりして、失敗してしまうこともあります。


同じマタイの福音書に次のような話があります。

舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。

弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、

「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声をあげた。

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。

「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

イエスは「来なさい」と言われた。

そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、

「主よ。助けてください」と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」


マタイの福音書14章24~31節




ペテロは、百人隊長と同じように、イエス様にことばを求めました。

そして、イエス様はペテロの思いを受け取り、「来なさい。」と一言お伝えになりました。


この時点で、全ての問題は解決していたはずでした。

ペテロは、そのことばを信じるとき、水の上を歩いてイエスさまのもとにたどり着けるはずでした。


「水の上を歩くこと」。

それは、人間的に考えれば不可能なこと。

でも、イエス様には、神様にはできるのです。


実際に、ペテロは最初の数歩は水の上を歩くことができました。

しかし、ペテロは、周りの風を見て、こわくなり、沈みかけたのです。


「周りの風」は、僕らで言えば、周りの状況や、周りの人たちの言葉かもしれません。

「そんなの無理だよ。」

「これから先の将来、不安じゃないの??」

僕らにかけられるいろんな言葉が、僕らを取り巻くいろんな状況が、僕らを不安にさせ、恐れさせます。

そして、気付かぬうちに、神様のことばという最も信頼できるものを、忘れてしまいます。

そして、僕らは沈み「かける」のです。


でも、イエス様は愛に満ちたお方で、神様を信じる人たちを完全に沈ませることはなさいません。

このペテロの話の通り、イエス様はどんな時も必ず一緒にいてくださり、沈みそうな僕らの手をしっかりと握り、また水の上に引き上げてくださるお方。


聖書のこの二つの話は、2016年の僕にとって、本当に大切なものでした。


小児科医として。

淀川キリスト教病院のクリスチャンスタッフとして。

石橋キリスト教会の一員として。

夫として。

任されているひとつひとつのことは、僕にとって、ペテロが水の上を歩くようなものでした。

「僕にできるのだろうか。」

そんな思いが湧き上がり、時に不安になったり、落ち込んだりすることもありました。


しかし、そのたびに、僕はこの2つの箇所を思い出しました。

そして、僕が今与えられている神様からのことばを思い出しました。


神様のことばは、約束は、ご命令は、絶対に揺るぐことがありません。

この地上にあるどんなものよりも、確かなものです。


僕はただ、神様からのことばを。

信じて、握って、今日も生きます。


どうか、神様が神様を信じるひとりひとりを通して、2017年もそのすばらしいご計画を成し遂げてくださいますように。


神様を信じるひとりひとりが、まず神様のことばを待ち望み、受け取り、疑わず、信じて一歩ずつ進んでいくことができますように。


2017年も、心から神様に期待!!

来年もよろしくお願いします。

「私の羊を飼いなさい。」

おはようございます(^^)

今日はお休み。

ほんっとーーーーーーに嬉しい(T_T)

幸せです。。


朝もゆっくりと目ざめ、ピアノを弾きつつ賛美して、時間を気にせずデボーションし。

思うままに妻と分かち合う。。


本当にお休みが大好きです。



メノナイトブラザレン教団の福音神学校の聴講生をしている妻は、ついさっき家を出て。

今はひとりです。


そして、神様と二人っきりの時間。
(「二人っきり」で合ってるのかな?)


最近あったことや、自分が話したことば、自分に伝えられたことば、抱いていた感情など、少しずつ心の奥底から湧き上がってくる。

ひとつずつ、祈りつつ明るみに出していくとき、自分の中の至らなさに気付かされます。


最近、心に留まった箇所があります。


「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、

 へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

                             ピリピ2:2

※虚栄=見栄(自分がすごい!って取り繕う心)


すごい、心に留まるというか、刺さりました。


正直・・・

小児科医として働く中で。

淀川キリスト教病院の中でクリスチャンスタッフとして働く中で。

石橋キリスト教会で仕える中で。


自分に2つの心があることを感じます。


1つは、ただただ神様を愛し、人を愛し、仕えていきたいという心。


でも、もう1つは、自分が目の前の仕事や奉仕をしていく中で、どのような評価になるかなとか、どのような結果を残せるかなとか、そんな心。





神様が僕を置いて下さっているこの3つの場所。

僕は、神様がここに導いて下さったことを確信していて。

僕はよく、

「(ここで神様が与えておられる)僕がやるべきこと、ビジョンは何だろう?」

って考えます。


「(ここで神様を信じて)僕は何をしていけばいいんだろう?」

って考えます。


これまで、こうやって考えることに何の違和感も感じていなかったし、これでいいと思っていました。


でも、こんな風に「僕がどうしていく?」って考えると。

「自分」という人間を中心に考えていくと。

どこかでズレが生じてくるんです。



まず、「僕がどうしていく?」って考えて、行動し、仮にうまくいったら、僕は「僕」を誇ってしまう。。。

僕が頑張ったから、僕が特別だから、僕が人より優れているから、そんな考えが気付かぬうちに心に生まれてきてしまう。


そして、周りの人を裁いてしまう。

「あなた」はどうするの?

「あなた」がやるべきことはできているの?

「僕」中心に考えるからこそ、「あなた」中心に考えることを求めてしまうし、「あなた」ができているかどうかが気になり、裁いたり、逆にできてない自分に落ち込んでしまったりする。。


そして正直、最後まで走り続けることができません。
どんなに熱意・体力・気力があっても、自分の力には限界があります。




でも、聖書を通して神様は語って下さっている。

「何事でも、自己中心や虚栄からしてはいけない。」

「自分の心をいつも見張りなさい。」

「あなたが、「自分が人よりも優っている」という考えに少しでも陥ってるなら、それは違う。」

「それは私の喜ぶ心ではないよ。」





それなら、僕はどんな風にクリスチャンとして生きていけばいいんだろう。

自己中心や虚栄から解放されるためにはどうしたらいいんだろう。




もちろん、神様はその答えも聖書を通して語って下さっています。

「イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」」

                        ヨハネ21:17



「わたしの羊を飼いなさい。」って、正直僕もどんな意味か分かっていなかった。

でも、イエス様のことばをゆっくり味わうとき、この言葉が心に染みわたってくる。




「わたしの羊を飼いなさい。」


自分中心ではなく、イエス様中心に生きていくこと。


イエス様にあって、天の父なる神様の思いを、自分の思いに。

イエス様にあって、天の父なる神様の愛を、自分の愛に。



「この遣わされた場所で、「僕」がどうに生きていくのか。」

ではなくて。

「この遣わされた場所で、「イエス様」が僕を通してどう働かれていくのか。」



「この導かれた人に、「僕」がどう接していくのか。」

ではなくて。

「この導かれた人に、「イエス様」はどんな思いを抱いているのか。」


愛しい思い。

寄り添いたいという思い。

成長してほしいという思い。


そんな「イエス様」の思いを受け取り、そしてその思いで接していく。



そうしていくとき、自分中心の考えや虚栄は消えていき、代わりに平安と喜びで満たされていくんです。




最初にも言いましたが、正直、、、、僕はまだまだ2つの心で揺れています。



でも、日々の生活の中で、イエス様と一歩、また一歩進んでいくとき。

イエス様にもっともっと近づき、似せられ。

イエス様のLifeが僕を通してこの世界に溢れ流れでていくことを信じています。

Why do we study?

こんばんは(^^)

昨日は21時からぐっすり眠ることができました。
眠り、身体を休め、気持ちを新たにして今日を迎えることができました(^^)


神様は、人に働くことを与えられましたが、同時に休むことも与えてくださいました。
どちらかが欠けてもいけないんだと思います。

働き過ぎて休まないのも。

休みすぎて働かないのも。

どちらも違いますね。


イエスさまと働き、イエスさまと休む。

そんな人生をこれからも生きていきたいな。


今日のタイトルは、「Why do we study?」です。

実はこれは、僕が高校生の時に、北海道の英語のスピーチ大会で話したもののタイトル。

懐かしいな。

北見市という北海道の小さな町で、審査員の前で話したっけ。

僕の父さんと母さんは、高校時代演劇部で、このスピーチ大会に向けてジェスチャーを徹底的に指導してくれました。

父さんは僕よりも盛り上がってしまって、

「満ちる、最後はクラーク博士の "Be ambitious"と言ったらどうだ!」

とアドバイスしてくれて。

結局、それまでのスピーチの内容とあまり関係のない、"Be ambitious!"ということばを叫ぶことになりました。笑

今となっては良い思い出です。


話はそれてしまいましたが、当時の僕は、勉強することの意味を考えていました。

「なんで、将来使いそうもない、「古典」とかを勉強しなきゃいけないんだろー。」

という、みんなが一回は抱くような思いから、このスピーチを書きました。


実は、スピーチの原稿はどこに行ったかは分からず、結局当時の僕がどんな結論を出したのかは分かりません。


ただ、最近になって、この質問の答えを見つけ出すことができたんです。

今日は、そのことをシェアしたいと思います。





やっぱり、「愛」なんです。


「なぜ勉強するのか?」という問いの答えも、「愛すること」でした。


僕の仕事は医師です。

いつも、目の前に病気や障害に苦しんでいる方がいます。


医学を勉強することの動機は、その人たちへの愛なんだって改めて思うんです。

勉強することにより、よりよい治療を知ったり、症状を楽にすることができたり、障害を軽減することができて。

そのためにこそ、僕は日々勉強しているんです。


すべては、目の前にいるその人を愛する心に始まっている。


きっと、それは医師だけでないはず。

学校の先生も、なぜ、勉強して次の日の授業に備えるのか。

それはきっと、明日生徒ひとりひとりが、聞き、受け取り、身に着け、そしてその先に「大人」となっていくため。


勉強が、目の前にいる人を愛する心に始まるなら、勉強は本当に素敵なものだと感じていきます。


正直、愛を動機としなくても、勉強することはできます。

人の上に立つために。

お金を稼ぐために。

誰かを見返すために。


でも、その先には何があるんだろうって思うんです。

人の上に立つために勉強して、実際に人の上に立つことができたとして。

その先には何があるのかな。

幸せがあるのかな。


お金を稼ぐために勉強して、実際にお金をたくさん手に入れることができたとして。

その先には何があるのかな。



最後に・・・そうはいっても、もしこのブログを高校生の子が読んでいたら、、なかなか「愛するため」ってことを意識することは難しいと思います。笑

きっと、高校生の時の僕もそんな答えにはたどり着いていなかった。


ただ、今当時を振り返って思うのは、勉強することは、社会に出た時に必要となる、「忍耐力」を養うことにつながっているということ。


正直、僕は今、普段の生活で「古典」を使う機会はほとんどありません。

数学や物理、化学の難しい知識もほとんど忘れてしまいました。


でも、テスト前のストレスや、忍耐して忍耐して勉強したことは覚えてる。

それは、今も生きています。


だから、あなたも「今」を大切にして生きていくとき、神様があなたの前に「愛するべき人」、「愛をもって取り組む使命」を与えて下さると思います。

労苦

こんばんは。

夜分、遅くに失礼します。

前の投稿は8月23日、更新が2か月も空いてしまいました。

僕は、元気です!
と言いたいところですが、そうでもありません。

身体的にも、精神的にも、霊的にも、ヘトヘトな状態であることは2か月前とあまり変わりはありません。

ただ、そのヘトヘトの中にいるからこそ、本当に大切なものに気付かされているのも事実です。


イエス様の教えは本当に不思議です。

「心の貧しい者は幸いです。」

「悲しむ者は幸いです。」


イエス様は、貧しさ、悲しみを、「幸せなことだ」と表現されました。
それは、昔も今も、この世界の価値観とは全く反対のこと。

それがどういうことか、聖書を通してイエス様の人生を知るとき、少しずつ分かります。
イエス様は、お金持ちやこの世界の権力者よりも、貧しい人や人に嫌われる仕事をしている人、病や弱さゆえに苦しんでいる人のもとへ行かれました。

なぜなら、彼らが生きる上で最も必要なものを求めていたからでした。

イエス様には、目に見えたお金や権力はありませんでした。
でも、目には見えない、人にとって一番必要なものを持っておられました。


僕自身、ヘトヘトな日々でこそ、心からイエス様を慕い求めることができます。

ヘトヘトな日々の中に、人よりも自分が優っていると思う高慢な心や、自分中心の心はありません。


ただただ、イエス様の助けが必要だと感じるのです。


今日、妻が素敵なみことばを教えてくれました。

「私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」
コロサイ1章29節


イエス様により変えられた使徒パウロの言葉です。

パウロは、キリストを信じることによって、労苦から解き放たれるとは言いませんでした。

そうではなく、自分のうちに力強くイエス様の力が働く中で、労苦し、奮闘することができるのだと言いました。


僕らにはいつも労苦があります。

それは、イエス様を信じ救われたからといって。変わることはありません。

しかし、イエス様に救われた今は、労苦はイエス様に近づく最高のチャンスです。

労苦により、自分の貧しさ、悲しみ、苦しみ、弱さを感じれば感じるほど。
僕はイエス様を求めることができる。


そして、イエス様は僕のうちに働き、目には見えない大切なものを育んでくださいます。


今、読んでくださっている方の中で、労苦の中にいる方がおられましたら、一緒にイエス様を見上げていきましょう。